「
『御詠の中には、いづれをかすぐれたりとおぼす。よその人さまざまに定め侍れど、それをば用ゐ侍るべからず。まさしく承らんと思ふ。』
と聞こえしかば、
『
夕されば 野辺の秋風 身にしみて
うづら鳴くなり 深草の里
これをなん、身にとりてはおもて歌と思い給ふる。』
と言はれしを、俊恵またいはく、
『世にあまねく人の申し侍るは、
面影に 花の姿を 先立てて
幾重越え来ぬ 峰の白雲
これを優れたるように申し侍るはいかに。』
と聞こゆれば、
『いさ、よそにはさもや定め侍るらん。知り給へず。なほみづからは、先の歌には言ひ比ぶべからず。』
とぞ侍りし。」
と語りて、これをうちうちに申ししは、
「かの歌は、『身にしみて』という腰の句いみじう無念におぼゆるなり、これほどになりぬる歌は、景気を言ひ流して、ただそらに身にしみけんかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじう言ひもてゆきて、歌の詮とすべきふしを、さはと言ひ表したれば、むげにこと浅くなりぬる。」
とて、そのついでに、
「わが歌の中には、
み吉野の 山かき曇り 雪降れば
ふもとの里は うちしぐれつつ
これをなむ、かのたぐひにせんと思う給ふる。もし世の末に、おぼつかなく言ふ人もあらば、『かくこそ言ひしか。』と語り給へ。」
とぞ。
俊恵法師が言うことには、
「五条三位入道(=藤原俊成)のところへ参上した折に、
『(入道様の)お歌の中では、どれが優れているとお思いですか。世間の人々はいろいろと決めていますが、(私俊恵は)それを受け入れることが出来ません。ぜひお聞きしたいと思います。』
と申し上げたところ、
『
夕方になると 野辺を吹き渡る秋風が 身にしみて感じられ
うづらが寂しげに鳴くようだ 深草の里では
これが、私にとっては代表的な歌だと思い申し上げる。』
と(入道様が)おっしゃったので、俊恵がまた言ったことには、
『世に広く人々が申しておりますのは、
面影に 浮かぶ桜の姿を 導き手として
いくつ越えてきたことだろう 白雲のかかる山の峰を
これを優れているように申しているのは、どうでしょうか。』
と申し上げると、
『さあ、世の人はそう定めているのでしょうか。存じ上げません。それでも私自身としては、先ほどの歌と言い比べることはできない。』
という返事がありました。」
と語って、このことについて、(俊恵法師が鴨長明に対して)内々で申したことには、
「あの歌は『身にしみて』という第三句が非常に残念に思えるのだ。これほど優れた出来になった歌は、具体的な景色や雰囲気をさらりと詠み流して、ただなんとなく身にしみたのだろうな、と思わせるのが奥ゆかしく優れているというものだろう。それなのにたいそう言葉を重ねていって、歌の大切にするべきところ(『身にしみて』、というところ)をそのままあっさりと言い表してしまっては、ひどく趣が浅くなってしまった。」
と言って、その折に、
「私の歌の中にある
吉野の山が 急に曇って 雪が降ると
ふもとの里では 時雨が降っていることだ
これを私の代表歌にしようと思い申し上げる。もし将来私の代表歌がどれかわからないという人がいれば、『(俊恵法師は)こう言っていた』と語ってください。」
と言った。
登場人物について紹介しておこう。
俊恵(1113〜1191?)は俊恵法師とも呼ばれた。
源俊頼 (『☞俊頼髄脳』の作者) の子。
百人一首 85番「よもすがら もの思ふころは 明けやらぬ 閨のひまさへ つれなかりけり」の作者。
穏やかな歌(自然歌)を特徴とする歌人で、藤原俊成(五条三位入道)にも大きな影響を与えた。
五条三位入道は、
藤原俊忠の子。 百人一首の撰者、藤原定家の父。
百人一首 83番「世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」の作者。