下京や 雪つむ上の 夜の雨
凡兆
この句、はじめに冠なし。先師とはじめいろいろと置き侍りて、この冠にきはめ給ふ。凡兆
「あ。」
と答へて、いまだ落ち着かず。先師いはく、
「兆、なんぢ手柄にこの冠を置くべし。もしまさるものあらば、我ふたたび俳諧を言ふべからず。」
となり。去来いはく、
「この五文字のよきことは、たれたれも知り侍れど、このほかにあるまじとはいかでか知り侍らん。このこと、他門の人聞き侍らば、腹いたくいくつも冠置かるべし。そのよしと置かるるものは、またこなたにはをかしかりなんと思い侍るなり。」
下京よ 雪が積もった上に 夜の雨が降っていることだ
凡兆
この句は、最初は初めの五文字がなかった。芭蕉先生を初めとして(芭蕉一門の人々)がいろいろと置きまして、この五文字に決めなさった。凡兆は、
「あ。」
と答えて、いまだに納得はしていない。芭蕉先生は言った。
「兆は、自分の立派な仕事としてこの五文字を置きなさい。もしこれに勝るものがあれば、私は二度と俳諧について語らないつもりだ。」と。
去来は申し上げた。
「この五文字のよいところは、誰でも知っていますが、このほかにはあるはずもないとは、どうして知りましょうか。いいえ、知りようなど無いのです。このことを他門の人が聞きましたら、小癪なと思っていくつも冠を置きなさるでしょう。(しかし、芭蕉先生のこの上五はあまりに素晴らしいので、)他門の人が良いと置きなさる(上五)は、どれもまたこちらでは滑稽に違いないだろうと思うのです。」
美しい叙景の世界
柔らかな暖かさ
庶民的で親しみやすい
「雪つむ上の〜」のイメージと調和している
芭蕉には絶対的な自信があった
五七五の各句は互いに深く関連しあっていて、表現に使う言葉は置き換えのできない唯一のものでなければならない。
他の冠を考えるだろう
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蕉門からすると滑稽である。
@蕉門においては各句は置き換えのできない唯一のものである
A芭蕉先生の上五はあまりにも素晴らしい