おのれ古典を説くに、師の説とたがへること多く、師の説のわろきことあるをば、わきまへ言ふことも多かるを、いとあるまじきことと思ふ人多かんめれど、これすなはちわが師の心にて、常に教へられしは、
「のちによき考えの出で来たらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ。」
となん、教へられし。こはいと貴き教へにて、我が師の、よにすぐれ給へる一つなり。
おほかた、いにしへを考ふること、さらに一人二人の力もて、ことごとく明らめ尽くすべくもあらず。また、よき人の説ならんからに、多くの中には、誤りなどなからん。必ずわろきこともまじらではえあらず。そのおのが心には、
「今はいにしへの心ことごとく明らかなり。これをおきては、あるべくもあらず。」
と、思ひ定めたることも、思ひのほかに、また人のことなるよき考への出で来るわざなり。あまたの手を経るまにまに、先々の考えの上を、なほよく考へきはむるからに、次々に詳しくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとて、必ずなづみ守るべきにもあらず。よきあしきを言はず、ひたぶるに古きを守るは、学問の道には言ふかひなきわざなり。
また、おのが師などのわろきことを言ひ表すは、いともかしこくはあれど、それも言はざれば、世の学者その説に惑ひて、長くよきを知る期なし。師の説なりとて、わろきを知りながら、言はずつつみ隠して、よさまにつくろひをらんは、ただ師のみを貴みて、道をば思はざるなり。
私が古典を説明するときに、先生の説と違うことが多くあり、先生の説の良くないところがあるのを、はっきり違いを見分けて言うことが多かったのを、まったくとんでもないことだと思う人が多いようだが、これはつまり私の先生の心であって、いつも教えられたのは、
「あとで良い考えが浮かんできたときには、先生の説と違うからと言って必ずしも遠慮してはならない。」
と教えられた。これはとても立派で優れた考えであって、私の先生がとても優れていらっしゃることの一つである。
そもそも、昔のことを考えることは、決して一人二人の力でもって何もかもを明らかにし尽くせるわけもない。また、優れた人の説であるからと言って、その中にどうして誤りが無いことがあろうか。いや、あるはずである。良くないことも混じらないと言うことは決してあり得ない。その自分の心には、
「今は古代の人の心は全て明らかである。自分の説を除いては、真実があるはずもない。」
と思い込んでしまうことも、思いのほかに、また他人の違う良い考えが出てくることの理由である。多くの研究者の手を経ていくと、前の人々の考えの上を、さらによく考えきわめるので、次々と詳しくなって行くものなので、先生の説だからといって、必ずしも執着して守らねばならないわけではない。良い悪いを言わずにひたすら古い説を守るのは、学問の道ではとるにたらないことである。
また、自分の先生の良くないところをはっきり言うのは、とても恐れ多いことではあるが、それも言わなければ、世の中の学者は良くない説に惑わされ、長い間、良い説を知ることができなくなる。先生の説だからと言って、良くないのを知っているのに言わずに黙っていて、良いように格好つけているようなことは、ただ先生だけを尊んで、学問のことを思っていないのである。
江戸時代(18世紀後半)、国学者
師とは、
一般人はまったくとんでもないと思うようだが、あとで良い考えが浮かんできたときには、先生の説と違うからと言って必ずしも遠慮してはならない。
先生の説だからといって、必ずしも執着して守らねばならないわけではない。
理由
一人二人の力でもって何もかもを明らかにす尽くせるわけもなく、
多くの人々が、前に研究された考えを検証し極めていかないと、詳しく分からない。
@先生の説の良くないところを指摘しないと、世の中の学者が迷い、正しい説を知る機会を失う。
A優れた人の説であっても、誤りはある。
→先生の説にこだわらずに、正しい説を追求する態度が必要である。