昔、男、
春日野の 若紫の すりごろも
しのぶの乱れ かぎりしられず
となむ追ひつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
みちのくの しのぶもぢずり たれゆゑに
乱れそめにし われならなくに
といふ歌の心ばへなり。昔人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
昔、ある男が元服の儀式をして、奈良の都の春日野の里に、土地を持っている縁で、狩りをしに出かけた。その里に、若々しくて美しい女姉妹が住んでいた。この男は、垣間見(のぞき見)をした。(その女姉妹は)思いも寄らないほど、田舎に(不釣り合いなほど)とても美しい姿であったので、心が動かされてしまった。男が着ていた狩衣の袖を切って、歌を書いて贈った。その男は、信夫摺を着ていた。
春日野の
若い紫草(を見て)
摺衣(の乱れ模様のように)
あなた方を恋い忍ぶ
(私の心は)限りも知ることができない
と、すぐさま言って贈った。(男は)ことの成り行きが面白いことと思ったのだろうか。
(さて、この歌は)
陸奥の国の
信夫捩摺り(の乱れた染め模様のように)
誰のせいであろうか、
(私の心は)乱れそめてしまった
(原因は)私ではないのになあ(あなたのせいだ)
という歌の意図(をとったもの)である。昔の人は、こういう情熱的な雅なことをしたのだなあ。
『伊勢物語』第一段より。
在原業平をモデルとした物語。
これだけ有名な作品でありながら作者は不詳。作者について在原業平本人、あるいは紀貫之、など様々な説がある。
成立時期も不詳だが、少なくとも在原業平の没(880年)以降であり、11世紀以降の大幅な増補を経て現在の形になったようである。
百人一首の一四番にも選ばれている、河原左大臣の和歌である。
詳しい解説は、「☞百人一首 014 みちのくの」を参照。
「男」は、この和歌を下敷きにして「春日野の〜」の和歌を詠んだ。いずれも、信夫摺の乱れ模様を喩えに出して、恋に乱れる心を歌い上げたものである。