さて
うたがはし ほかにわたせる 文見れば
ここやとだえに ならむとすらむ
など思ふほどに、うべなう、
「しばし試みるほどに」
など気色あり。これより夕さりつかた、
「うちのがるまじかりけり」
とて出づるに、心得で、人をつけて見すれば、
「町の小路なるそこそこになむとまり給ひぬる」
とて来たり。さればよと、いみじう心憂しと思へども、言はむやうも知らであるほどに、二三日ばかりありてあかつきがたに門をたたく時あり。さなめりと思ふに、憂くてあけさせねば、例の家とおぼしきところにものしたり。つとめて、なほもあらじと思ひて、
なげきつつ ひとり
いかに久しき ものとかは知る
と、例よりもひきつくろひて書きて、うつろひたる菊にさしたり。返りごと、
「明くるまでも試みむとしつれど、とみなる召使の来あひたりつればなむ。いとことわりなりつるは。
げにやげに 冬の夜ならぬ まきの戸も
おそくあくるは わびしかりけり
」
さても、いとあやしかりつるほどに、ことなしびたる。しばしは忍びたるさまに、「内裏に。」など言ひつつぞあるべきを、いとどしう心づきなく思ふことぞ、限りなきや。
さて、九月あたりになって、(夫が)外出してしまったところに、箱があるので手慰みに開けてみると、(夫が他の女の)人の所へ送ろうとしていた手紙がある。驚きと呆れに、(私がこの手紙を)見たことだけでも知らせようと思って、書き付けた。
疑わしいことだ。他の女に宛てた 手紙を見てしまったので、
あなたがここへ来るのも途絶えてしまうようになるのでしょうか。
などと考えていると、もっともなことだ、十月の末あたりに、三晩続いて(夫が)姿を見せないときがあった。(夫は)平気な様子で、
「ちょっと(お前の愛を)試してみただけだよ」
などといったそぶりである。これから(夫は)夕方に、
「(用事から)逃れることができなかった」
といって出て行ったので、何だか分からなかったので、人をつけて尾行させると、
「町の小路にある、どこどこにお止まりなさった」
といって戻ってきた。やはりだと、とても辛いと思ったが、(夫に)どう言ったものか分からずにいる間に、二、三日ほどたってから明け方に門を叩くことがあった。そう(夫が来たの)であろうとは思うが、うんざりしていて開けなかったところ、例の(小路の女の)家とおぼしき方へ行ってしまった。早朝、何もしないではいられまいと思って、
嘆きながら ひとりで寝る夜の 明けるまでが
いかに長いものか あなたは知っていますか
と、いつもよりは体裁を整えて書いて、盛りの過ぎている菊にさし結んで送った。(夫からの)返事は、
「夜が明けるまで(門が開くのを)待ってみようとしたが、急ぎの使いが来合わせたので、待たずに去った。(あなたが私に対して怒るのは)たいへんもっともであったよ。
なるほど本当に 冬の夜が明けるのは遅いが そうでなくてもまきの戸が
遅く開くのは つらいのだなあ。
」
それでも、とても不審がっているうちに、(夫は)素知らぬ顔をしてまた他の女のところへ通っている。しばらくは隠すように「宮中へ。」などと言いながら行くのが当然であるが、ますます気に入らなく思うこと、この上ないなあ。
夫である藤原兼家との結婚生活を綴った日記。女流日記の先駆けであり、後の日記、物語に大きな影響を与えた。
うつろひたる菊 = 盛りが過ぎて色が変わってしまった菊
→ 夫の心変わりを暗示している
(夜が)明く と藤原道綱母が詠んだのに対して、
(門が)開く との掛詞として、夫の兼家が返歌を詠みあげている。
藤原道綱母の歌は、百人一首にも選び入れられた。
☞53番 嘆きつつ
平安時代の結婚事情
平安時代の結婚のプロセスは、今とは全く異なります。当時の結婚を順を追ってみていきましょう。
さて、この『蜻蛉日記』の本文中には
三夜しきりて見えぬ時あり。
(三晩続けて来ないときがあった)という記述がありますが、これはまさに「三日の餅」を想起させます。この時代の人間ならば、「これはひょっとして、どこかの女と結婚したのではないか?」と推測を巡らせたことでしょう。現代の我々からすると、思いもしないことですね。
参考:東京書籍『新総合 図説国語』改訂新版, 2007