時帝姉湖陽公主新寡。帝与共論朝臣、微観其意。主曰、
「宋公威容徳器、群臣莫及。」
帝曰、
「方且図之。」
後、弘被引見。帝令主坐屏風後、因謂弘曰、
「諺言、貴易交、富易妻。人情乎。 」
弘曰、
「臣聞、貧賤之交不可忘。糟糠之妻不下堂。 」
帝顧謂主曰、
「事不諧矣。 」
時に帝の姉 湖陽公主新たに寡となる。帝与共に朝臣を論じ、微かに其の意を観る。主曰はく、
「宋公の威容徳器、群臣及ぶ莫し。」
と。 帝曰はく、
「方に且に之を図らんとす。」
と。
後、弘引見せらる。帝主をして屏風の後ろに坐せしめ、因りて弘に謂ひて曰はく、
「諺に言ふ、『貴くして交はりを易へ、富みて妻をのごとし易ふ』と。人の情か。」
と。 弘曰はく、
「臣聞く、『貧賤の交はりは忘るべからず。糟糠の妻は堂より下さず』と。」
帝顧みて主に謂ひて曰はく、
「事諧はず。」
と。
その当時、光武帝(後漢の初代皇帝)の姉・湖陽公主は夫が亡くなり未亡人になったばかりだった。光武帝は、姉と一緒に家臣たちの話をして、ひそかに姉の意中の人を探った。姉の公主が言うことには、
「宋公様の威厳と立派な人格は、他の家臣たちで及ぶ者は居ないことだ。」
と。光武帝が言うことには、
「それでは(宋公との再婚できる方法を)考えてみよう。」
と。
その後、宋公は(光武帝に)呼び出されて謁見した。光武帝は、姉の公主を屏風の後ろに座らせておき、宋公に向かって言うことには、
「諺にこういう言葉がある。『身分が高くなったら交友関係を変え、お金持ちになったら妻も変える』と。これは人の気持ちとしては当然じゃないかね。」
と。宋公が答えて言うことには、
「私はこうも聞いております。『貧しいときの交友関係は忘れては成らない。酒粕や米ぬかしか食べられない貧しいときの妻は家から追い出してはならない』と。」
光武帝が後ろを振り返って、姉の公主に向かっていったことには、
「いやあ、(宋公との再婚の説得は)うまくいかなかったよ。」
と。
『後漢書』
432年頃に成立した、中国後漢時代(25~220)について書かれた歴史書。
編者は范曄(398~445)。
後漢の滅亡から200年以上経ってから成立しているが、後漢の歴史書として散逸せずに残っているのはこの『後漢書』のみである。
宋公は今の妻と別れるつもりが全くなく、姉の公主と再婚させるのは不可能だと悟ったから。
屏風の後ろに隠れていた姉に、「聞いての通り、ダメだったよ。」と言っている。
光武帝は権力を振りかざして再婚を強要することもできたはずだが、宋公の夫婦関係を守った。
光武帝の人柄の良さが窺えるエピソードだ。