師の風雅に
不易を知らざれば、まことに知れるにあらず。不易といふは新古によらず、変化流行にもかかはらず、誠によく立ちたる姿なり。
また、千変万化するものは、
「かりにも古人の涎をなむることなかれ。
とも言へり。
師末期の枕に、門人この後の風雅を問ふ。師の曰はく、
「この道の我に出でて百変百化す。しかれどもその境、真草行の三つをはなれず。その三つが中に、いまだ一二をも尽くさず。」
となり。生前折々のたはむれに、
「俳諧いまだ俵口をとかず。」
とも云ひ出られしこと度々なり。
師(=松尾芭蕉)の文芸(=俳諧)には、永久に不易な(普遍的な価値のある)ものがあり、またその時々に変化するものがある。(師の俳諧は)この二つにすべてが帰着し、その根本は一つである。その一つというのは、風雅の真実である。
不易を知らなければ、本当に(蕉風の俳諧のことを)知ったということにはならない。不易というのは、(作品が)新しいか古いかによらず、作風の変化や流行にも関係なく、誠の上にしっかりと立った姿のことである。色々な時代の歌人の歌を見ると、時代によって作風の変化がある。しかしまた、時代の新しい古いに関わりなく、今(の我々が)見るところも、昔(の人々が)見たのと変わらず、しみじみと心を打つ歌は多い。これをまず不易と考えるとよい。
また、色々な物が変化することは、自然の道理だ。(俳諧も)変化していかなければ、俳風は新しくならない。これに従って移らないというのは、一時期の流行で詠みぶりが時流に乗ってもてはやされるだけで、その(俳諧の)誠を極めようとしていないからである。(俳諧を)極めようとせず、心を凝らして考えようとしない者は、誠の変化を知るということはない。ただ他人の真似をしていくだけだ。(俳諧を)極めようとする者は、現在の境地にとどまってはいられず、一歩自然に前進するのが道理だ。将来(俳諧が)進化してゆく先はどれだけ変化していくといっても、誠の変化流行は、すべて師の(志す)俳諧である。
「仮にも昔の人がやったことを真似するだけではいけない。四季が移り変わってゆくように物が変化していくのは、(俳諧も)まったく同じことだ。」
とも言った。
師の最期の枕元で、門人がこれから俳諧の将来を問うた。師が言うことには、
「この道(蕉風)が私から始まってたくさんの変化を重ねている。しかしその(変化の)範囲は、真・草・行の3つを離れていない。その3つの中で、いまだに1,2も尽くしてはいない。」
と。(師は)生前折々冗談で、
「俳諧はまだ俵口を解いていない。(奥深くて、まだスタートラインにもついていない)」
ともおっしゃることが度々であった。
西暦1702年頃成立。松尾芭蕉の弟子、
「白冊子」「赤冊子」「忘れ水(黒冊子)」の3部から構成されている。
松尾芭蕉は自身で俳論を記していないため、弟子の記録が頼りとなっている。
同じく芭蕉の弟子である
近世俳風の比較
俳諧(俳句)は短歌に比べ気軽に楽しめるとして、江戸時代を通して人気を博しました。
時代ごとに様々な俳諧師が活躍し、それぞれの流派があることが本文中で触れられていましたね。それぞれの俳風をまとめておきます。
1620〜1670年頃。
俳諧連歌から、俳諧を独立させた。
例句 : ねぶらせて 養ひたてよ 花のあめ (松永貞徳)
1670〜1690年頃。
貞門に対して、奇抜・軽妙な言い回しを特徴として流行した。
例句 : ながむとて 花にもいたし くびの骨 (西山宗因)
1690〜1700年頃。
わび・さびを追求し、俳諧を芸術として完成させた。
例句 : 夏草や つはものどもが 夢の跡 (松尾芭蕉)
(蕉風の後、俳諧が廃れ川柳が流行する)
1780〜1790年頃。
蕉風の復興。離俗、絵画的な芸術性の高さを追求。
例句 : 牡丹散って うち重なりぬ 二三片 (与謝蕪村)
1800〜1830年頃。
即興的、人間味を重視した率直な句。擬音、俗語の使用。
例句 : 雪とけて くりくりしたる 月夜かな (小林一茶)
参考:第一学習社『新訂総合国語便覧』新版二訂, 2010