和泉式部、保昌が妻にて、丹後に下りけるほどに、京に歌合はせありけるに、小式部内侍、歌詠みにとられて詠みけるを、定頼中納言たはぶれて、小式部内侍、局にありけるに、
「丹後へ遣はしける人は参りたりや。いかに心もとなくおぼすらん。」
と言ひて、局の前を過ぎられけるを、御簾より半らばかり出でて、わづかに直衣の袖をひかへて、
大江山 いく野の道の 遠ければ
まだふみもみず 天橋立
と詠みかけけり。思はずに、あさましくて、
「こはいかに、かかるやうやはある。」
とばかり言ひて、返歌にも及ばず、袖を引き放ちて、逃げられけり。
小式部、これより、歌詠みの世に覚え出で来にけり。
これはうちまかせての理運のことなれども、かの卿の心には、これほどの歌、ただいま詠みいだすべしとは、知られざりけるにや。
(小式部内侍の母である)和泉式部が、保昌の妻として丹後に下ってしまっていたとき、京で歌合わせがあったのだが、小式部内侍が、その歌合わせの歌い手として選ばれて歌を詠んだところ、定頼の中納言が戯れに、小式部内侍が部屋にいたときに、
「丹後へ遣わした人(=母上)は帰ってこられたか。(あなたは歌の名人である母がいなくて)どれほど不安に思っていらっしゃるのかな。」
と言って、部屋の前を通り過ぎたところを、(小式部内侍が)御簾から半分ほど出てきて、少しだけ(中納言の)直衣の袖を掴んで、
大江山を行く 生野の道が 遠いので
まだ(母上からの)手紙を読んでもいないし 天橋立の地を踏んだこともない
と詠みかけた。(中納言は)思いもせず、驚いて、
「これはどうしたことだ、こんなことがあるのか。」
とだけ言って、歌を返すこともせず、袖を引きはなって、逃げなさった。
小式部内侍は、これ以降、歌詠みの世界で評判になり始めた。
このことは、(小式部内侍本人にとっては)普通のなりゆきなのだが、あの卿(中納言)の心の中では、まさかこれほどの(優れた)歌を、(小式部内侍が)すぐに詠み出すことができるとは、ご存じなかったのだろうよ。
『十訓抄』
鎌倉時代中期(1250年頃)成立。三巻・十編。編者は未詳で、菅原為長説・六波羅二臈左衛門説などがある。
仏典『十善業道経』をもとに十箇条の教訓を掲げ、それぞれの教訓を守った例、背いた例が説話としてまとめられている。儒教的な思想が根底を流れており、年少者の啓蒙書として中世・近世にわたって使用された。
平安時代の説話が多く、教訓的な内容にとどまらず、今回読み進めたような文化的な内容も取り上げられている。
おおえやま |
大江山 |
名 |
の | みち | ||
いく野 | の | 道 | の |
【掛詞】 | 格助 | 名 | 格助 |
名「生野」 +動・名「行く 野」 |
場所 | 主格 |
とお | |
遠けれ | ば |
形容 | 接助 |
カリ活用(已然形) | 原因 |
み | ||||
まだ | ふみ | も | 見 | ず |
副 | 【掛詞】 | 係助 | 動 | 助動 |
名「文」 +動「踏み」 |
マ四 | 打消 |
あまのはしだて |
天橋立 |
名 |
「いくの」→地名「生野」 と 動詞「行く」+名詞「野」
「ふみ」→名詞「文」 と 動詞「踏み」
「和歌で高名な母がいなくて不安でしょう」と小式部内侍をからかった中納言だったが、思いの外巧みな和歌で返されてしまい、上手くやり込められてしまったから。
中納言の問いかけに対して、咄嗟にこれだけの和歌が出てくるというのは、驚きに値すること。