二階の窓から

『方丈記』より
行く河の流れは絶えずして

鴨長明

原文 現代語訳 ノート

原文

 行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にあるすみかと、またかくのごとし。

 たましきの都のうちに棟を並べ、いらかを争へる、高き、いやしき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるいは去年焼けて今年作れり。あるいは大家滅びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただの水の泡にぞ似たりける。

 知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る。また知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。そのすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔に異ならず。あるいは落ちて残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。あるいはしぼみてなほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。


現代語訳

 流れていく川の流れは絶えることがなく、しかも、流れる水はもとの水ではない。澱みに浮かぶ泡は、一方では消え、また一方では現れて、長い間とどまっていたためしはない。この世の中にある人間住居も、またこれと同じようなものだ。

 きらびやかな都の中に軒を並べて、屋根瓦(の高さ)を競っている、高貴な人、下賎な人の家は、何世代も経ていって無くならないものだ(と思える)が、これを本当かと尋ねてみると、昔からあった家はほとんどない。ある家は去年火事にあって今年作った家だ。また、ある家は大家が滅んで小さな家になっている。住んでいる人もこれと同じだ。場所も変わらず、人も多いのだが、昔見た人は、二、三十人の中でわずか一人か二人だ。朝に死ぬ人もいれば、夕べに生まれる人もいる様子は、実に、水の泡に似ていることだ。

 (私は)知らない。生まれる人死ぬ人は、どこから来て、どこへ去っていくのか。また、(私は)知らない。(この世は無常だというのに)仮の家を、誰のために苦心して(建て)、何のために見栄えをよくさせているのか。その家の主人住居と、無常であることを競いあっている様子は、言うなれば朝顔と何ら違わない。ある時はが落ちて、が残る。が残ったといっても朝日に(当たって、そのうち)枯れてしまう。あるいはがしぼんではそのまま消えないこともあるだろう。が消えないといっても夕べまで残っているということはない。


作品

『方丈記』 冒頭より
随筆。鴨長明の作。成立は鎌倉時代初頭(1212年)。

京都の日野山にある、方丈(=一丈・つまり約3メートル四方)の庵で書かれたのが作品名の由来。対句表現・比喩表現が随所で非常に巧みに使われている。


ノート

この「方丈記」のテーマは「無常観」である。
「行く河の流れは絶えずして〜」からはじまる冒頭部分は、川の流れという比喩を使って人間とその家屋の無常を説き、全編の主題を提示している部分だ。

ここでは、すみかを色々なものに喩えて無常観を示している。表にまとめてみよう。

すみか(家)
水が一所に留まることがないように、家も火事で焼けたり衰退したりする。
泡が現れては消えるように、人も死んだり、生まれたりしている。
朝顔
朝顔が露より長く残ったとしても、そのうち枯れてしまう。家も 人より長く残ったとしても潰れてしまう。
露が朝顔より長く残ったとしても、夕方には蒸発して消えてしまう。人も 家より長く残ったとしても死ぬ。

大意

すみか(家)とあるじ(主人)は、どちらも常に入れ替わっている。
そのどちらも、川の流れと水泡のように、あるいは朝顔とそれにくっついた露のように、儚いものである。

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簗瀬 一雄 (翻訳)
文庫: 243ページ
出版社: 角川学芸出版; 改版 (2010/11/25)
言語: 日本語
商品パッケージの寸法: 14.8 x 10.6 x 1.4 cm

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