難波江の あしのかりねの 一よゆゑ
身をつくしてや 恋ひわたるべき
なにはえ | |
難波江 | の |
名 | 格助 |
現在の大阪の地名。 蘆の名所。旅宿も多くあった。 |
あし | |||
蘆 | の | かりね | の |
名 | 格助 | 名【掛詞】 | 格助 |
刈り根 +仮寝 |
ひとよ | ゆゑ |
名【掛詞】 | 形名 |
一夜 +一節 |
原因・理由 |
みをつくし | て | や |
【掛詞】 | 接助 | 係助 |
名「澪標」 +「身を尽くし」 |
疑問 |
こ | ||
恋ひ | わたる | べき |
動 | 補動 | 助動 |
ハ上二 (連用形) |
ラ四 (終止形) 〜し続ける。 |
推量 「や」の結び(連体形) |
難波江の
蘆の刈り根のひと節のように(=短い)
旅の一夜の仮寝のために、
この身を尽くして
恋し続けるのだろうかね。
「難波江の 蘆の」までは、
→「刈り根の一節」へ導くための序詞。
・ 難波江 → 「澪標」、「渡る」
・ 蘆 → 「刈り根」、「一節」
上記 品詞分解【掛詞】を参照のこと。3つある。
出典『千載集』恋3・807
歌合わせで「旅宿逢恋」がテーマとして出たときに詠まれた歌。
難波は遣唐使の時代に栄えた港町であり、旅の宿も多くあった。 旅でやってくる男相手に、遊女は一夜限りの儚い恋を繰り返し、思慕に心を乱したことだろう。
こういう場所柄もあり、難波江は「旅宿逢恋」の題材としてぴったりだ。
ちなみに、難波は平安時代に遣唐使が廃止されてから廃れていったが、歌枕として残ることとなった。
「技巧上のポイント」にまとめたとおり、とにかく技巧づくしである。 この点が晩年の定家の気に入られた、ということが百人一首に選び入れられた理由の一つだろう。
しかし百人一首の成立以前、皇嘉門院別当の歌は勅撰集には4首しか入っておらず、あまり有名な歌人とはいえなかった。
別当の歌が百人一首に入ったのには、少々疑問が残るところだ。
特筆すべき点は、この歌が九条兼実の家で行われた歌合で詠まれたことだ。
兼実は藤原忠通(☞76番 「わたのはら」 の作者)の子で、別当が仕える崇徳院中宮・皇嘉門院聖子の異母弟であった。
つまり、崇徳院(☞77番 「瀬をはやみ」 の作者)の配下としての繋がりが浮かび上がってくる。
「難波」は遣唐使廃止で衰退した場所だが、なんとなく崇徳院の栄枯盛衰と重なる。 そうした意味合いもあって、定家はこの歌を選び入れたのかもしれない。
父は源俊隆。 崇徳院の皇后聖子(皇嘉門院。関白 藤原忠通の娘。)に女房として仕えた。
聖子からの縁で、九条兼実(聖子の異母弟)が主催する歌合わせで歌を残している。
『千載集』に2首、『新勅撰集』に2首、以下の勅撰集に5首、計9首入集。