二階の窓から

百人一首 077 瀬をはやみ


瀬をはやみ 岩にせかるゝ 滝川の
われてもすゑに あはむとぞ思ふ

崇徳院しゆとくゐん

品詞分解

はや
格助 形ク 接尾
原因の主語 「早し」の語幹 原因
いわ せ  
塞か るる
格助 助動
カ四
(未然形)
受身
(連体形)
たきがは
滝川
格助
主格
すゑ
われ
接助 係助 格助
ラ下二
(連用形)
あ   おも  
逢は 思ふ
助動 格助 係助
ハ四
(未然形)
意志
(終止形)
強意 ハ四
「ぞ」の結び(連体形)

現代語訳

川瀬(の流れ)が早いので
岩にせき止められた
滝川が
別れても最後には合流するように、
(離ればなれになってしまったあなたに)
会おうと思うことだ。

ポイント

「A(名詞)B(形容詞の語幹)
→「ABなので

作品の解説

出典詞花集しかしゅう』恋上・229

激しい急流が岩にぶつかる力強さから、恋心の激しさを感じる歌だ。
しかし、崇徳院の人生を考慮すると、この激しい歌のもう一つの解釈が出てくる。

崇徳天皇は、鳥羽上皇から近衛天皇(鳥羽上皇の子)への譲位を迫られて1141年に退位。崇徳院(上皇)となった。
その後に即位した後白河天皇と皇族同士で対立するが、これに摂関家同士(藤原忠実・頼長 対 忠通)、武士同士(源氏 対 平家)の対立も巻き込んで、1156年に「保元ほうげんの乱」が起こる。
崇徳院はこの乱で敗れ、讃岐(現在の香川県)に配流はいるされ、悲憤に暮れるなか 1164年に崩御してしまった。
崇徳院の死後、後白河天皇の身近な人々が急死したり、☞安元の大火(1177年)が起こったりして、崇徳院の怨霊の仕業ではないか、と恐れられた。

こういった崇徳院の悲劇的な背景を考えると、この激しい歌から、保元の乱で敗れ、悲しみのなか讃岐の地で愛する人にも会えず崩御した、その姿が思い浮かぶ。
百人一首の撰者 藤原定家の父 俊成は、崇徳院の歌壇で活動を始めた。定家は父から崇徳院のことを色々聞いていたことだろう。崇徳院の人生を思い浮かべながらこの歌を選定したことは間違い無い。

また、☞76番 「わたのはら」の作者は藤原忠通だが、こちらは保元の乱の勝者側である。定家はわざと乱の勝者・敗者 二人の歌を並べたのである。

作者

崇徳院すとくいん(1119 - 1164)

第75代天皇。鳥羽天皇の第一皇子。
1123年にわずか5歳で即位するが、1141年に鳥羽上皇から迫られて退位。
後の人生は「作品の解説」にあるとおりだ。

在位中も歌会を頻繁に開いていたが、上皇になってからは特に和歌に没頭した。
『詞花集』以下の勅撰集に78首入集。

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島津 忠夫 (翻訳)
文庫: 317ページ
出版社: 角川書店; 新版 (1999/11)
言語: 日本語
商品パッケージの寸法: 15 x 10.6 x 1.4 cm
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