二階の窓から

『平家物語』巻第九より
宇治川の先陣

作者未詳

原文 現代語訳 ノート

原文

 ころは睦月むつき二十日あまりのことなれば、比良の高嶺、志賀の山、昔ながらの雪も消え、谷々の氷うち解けて、水はをりふし増さりたり、白浪はくらうおびたたしうみなぎり落ち、瀬枕せまくら大きに滝鳴つて、さかまく水も速かりけり。夜はすでにほのぼのと明けゆけど、川霧深く立ちこめて、馬の毛も鎧の毛もさだかならず。

 ここに大将軍九郎御曹司おんざうし、川のはたに進みで、水のおもてを見渡して、人々の心を見むとや思はれけむ、

「いかがせむ、よど一口いもあらひへや回るべき、水の落ち足をや待つべき。」

 とのたまへば、畠山はたけやま、そのころはいまだ生年しやうねん二十一になりけるが、進み出でて申しけるは、

「鎌倉にてよくよくこの川の御沙汰ごさたさうらひしぞかし。知ろしめさぬ海川の、にはかにできても候はばこそ。この川は近江あふみの湖の末なれば、待つとも待つとも水まじ。橋をばまたたれか渡いてまゐらすべき。治承ぢしようの合戦に、足利又太郎忠綱は鬼神おにがみで渡しけるか。重忠瀬踏みつかまつらむ。」

 とて、たんの党をむねとして、五百余騎ひしひしとくつばみを並ぶるところに、平等院の丑寅うしとら、橘の小島が崎より、武者二騎ひつ駆けひつ駆け出で来たり。一騎は梶原かぢはら源太げんだ景季かげすゑ、一騎は佐々木四郎高綱たかつななり。人目にはなにとも見えざりけれども、内々ないないは先に心をかけたりければ、梶原は佐々木に一段いつたんばかりぞ進んだる。佐々木四郎、

「この川は西国さいこく一の大河だいがぞや。腹帯はるびの伸びて見えさうは。締めたまへ。」

 と言はれて、梶原さもあるらむとや思ひけむ、左右のあぶみを踏みすかし、手綱たづなを馬の結髪ゆがみに捨て、腹帯を解いてぞ締めたりける。その間に佐々木はつつとせ抜いて、川へざつとぞうち入れたる。梶原、たばかられぬとや思ひけむ、やがて続いてうち入れたり。

「いかに佐々木殿、高名かうみやうせうどて不覚したまふな。水の底には大綱あるらむ。」

 と言ひければ、佐々木太刀を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、生食いけずきといふ世一よいちの馬には乗つたりけり、宇治川速しといへども、一文字いちもんじにざつと渡いて、向かへの岸にうち上がる。
 梶原が乗つたりける摺墨するすみは、川中より篦撓のため形に押しなされて、はるかのしもよりうち上げたり。佐々木、鐙踏んばり立ち上がり、大音声だいおんじやうをあげて名のりけるは、

「宇多天皇より九代の後胤こういん、佐々木三郎秀義ひでよし四男しなん、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣ぞや。われと思はん人々は高綱に組めや。」

 とて、をめいて駆く。

 畠山、五百余騎で、やがて渡す。向かへの岸より山田次郎が放つ矢に、畠山、馬の額を篦深のぶかに射させて、弱れば、川中より弓杖ゆんづゑを突いて降り立つたり。岩浪、かぶとの手先へざつと押し上げけれども、ことともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後ろに物こそむずと控へたれ。

「たそ。」

 と問へば、

重親しげちか。」

 と答ふ。

「いかに大串か。」

「さんざうらふ。」

 大串次郎は畠山には烏帽子子えぼしごにてぞありける。

「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばでつきまゐらせて候ふ。」

 と言ひければ、

「いつもわ殿ばらは、重忠がやうなる者にこそ助けられむずれ。」

 と言ふままに、大串を引つ下げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただ直つて、

武蔵むさしの国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣ぞや」

 とぞ名のつたる。かたきも味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける


現代語訳

 ときは(旧暦)1月20日過ぎ(※暦上は1月から春)のことなので、比良の高嶺や志賀の山(※現在の滋賀県南西部の山々)の古雪も消え、谷々の氷も溶けて、(宇治川の)水は今ちょうど水かさを増していて、白波が激しくたって流れ落ち、川の瀬の波の盛り上がりも大きく滝のような音を立て、逆巻く水の勢いも速かった。夜はもうほのぼのと空けてくゆくが、川霧が深く立ちこめて、馬の毛(の色)も鎧の緒(の色)もはっきり見えない。

 このとき、大将軍の九郎御曹司(=源義経)が、川のほとりに進み出て、水面を見渡して、配下の人々の心を見ようと思われたのだろうか、

「どうしようか、淀か、一口いもあらい(※いずれも京都の地名)へ回った方がよいか、あるいは水の減りぎわを待った方がよいか。」

 とおっしゃるので、畠山という、そのときまだ21歳になったばかりの者が、進み出て申し上げたことには、

「鎌倉で重々この川のご評定はございましたよ。ご存じない海や川が、突然出てきましたならばまだしも。この川は、近江の湖(=琵琶湖)の出口なので、待っても待っても水は干上がるまい。また、橋を誰が渡して差し上げることができようか(いや、できない)。治承の合戦のときに足利忠綱は鬼神として渡ったのか。この私・重忠が瀬の深さを試してみましょう。」

 といって、丹の党(※武蔵国の武士団)を主力として、500騎あまりがびっしりとくつわを並べるところに、平等院の北東、橘の小島が崎から、武者2騎が馬を駆り立てて出てきた。1騎は梶原源太景季、もう1騎は佐々木四郎高綱だ。人目にはなんとも見えないけれど、内心は前へと心がはやっていたので、梶原は佐々木に1たん(※距離の単位。約11メートル。)ほど前に出ていた。佐々木四郎が、

「この川は西国一の大河だぞ。腹帯(※鞍を馬の腹に括り付ける帯)がゆるんで見えますな。お締めなさい。」

 と言うので、梶原はそういうこともあるだろうと思ったのだろう、左右の鐙を踏ん張って、手綱を馬のたてがみに引っかけて、腹帯を解いてから締め直していた。その間に、佐々木はすっと駆け抜けて、川へざっと入っていた。梶原は、騙されたと思ったのだろうか、すぐに続いて川へ入った。(梶原は、)

「やあやあ佐々木殿、功名を立てようとして失敗なさるな。水の底には大綱が張ってあるだろう。」

 と言うので、佐々木は太刀を抜き、馬の足に引っかかった大綱をぷつりぷつりと切っては切り、生食いけずきという当代一の馬に乗っていたし、宇治川の流れが速いとは言っても、一直線にざっと渡って、向こう岸へ乗り上がる。
 梶原が乗っていた馬・摺墨は川の半ばから矢を曲げたような形に押し流されて、はるか下流から乗り上がった。佐々木が、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗ったことには、

「宇多天皇から9代の子孫、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣だぞ。我こそはと思う者たちは、この高綱と勝負せよ。」

 といって、大声を上げて駆ける。

 畠山は、500騎あまりで、すぐに渡った。向こう岸から山田次郎が放った矢に、畠山は、馬の額を深く射られてしまい、(馬が)弱ったので、川の中に弓を杖にして(馬から)降りて立っていた。岩に砕ける波が、兜の吹き返しの前方をざっと押し上げたが、ものともせず、水の底をくぐって、向こう岸へなんとかたどり着いた。岸へ上がろうとすると、後ろから誰かがむんずと引っ張っている。(畠山が)

「誰だ。」

 と問うと、

重親しげちかだ。」

 と答える。

「なんと、大串か。」

「さようでございます。」

 大串次郎は、畠山にとっては烏帽子子えぼしご(※元服のときに親役を務め、冠を被せてあげた子)であった。(大串は)

「あまりに水が速くて、馬は押し流されてしまいました。力が及ばなくて掴まり申し上げたのです。」

 と言ったので、(畠山は)

「いつもお前たちは、私・重忠のような者に助けられるのだなあ。」

 と言うが早いか、大串を引き下げて、岸の上へ投げ上げた。(大串は)投げ上げられて、まっすぐに立ち上がって、

「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣だぞ。」

 と名乗った。敵も味方もこれを聞いて、一斉にどっと笑った


作品

平家物語へいけものがたり

作者は不詳。『徒然草』には信濃前司行長しなののぜんじ ゆきながという人物の作という話があるが、確定には至っていない。
鎌倉時代前半、1230年前後の成立と考えられている。

滅び行く平家一門の運命を描く軍記物語。無常観を主題としている。
琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。


ノート

敵も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑」った理由

大串次郎の「徒歩組の先陣」があまりにも格好悪くておかしかったから。

大串は、川に流されて上がれなくなっていたところ、烏帽子親の畠山に投げ上げてもらって、ようやく渡河できた。
騎馬で「一文字にざっと渡って」先陣を切った佐々木四郎高綱とは対照的だ。

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佐藤 謙三(著)
文庫: 361ページ
出版社: 角川書店 (1959/5/5)

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