ころは
ここに大将軍九郎
「いかがせむ、
とのたまへば、
「鎌倉にてよくよくこの川の
とて、
「この川は
と言はれて、梶原さもあるらむとや思ひけむ、左右の
「いかに佐々木殿、
と言ひければ、佐々木太刀を抜き、馬の足にかかりける大綱どもをば、ふつふつと打ち切り打ち切り、
梶原が乗つたりける
「宇多天皇より九代の
とて、をめいて駆く。
畠山、五百余騎で、やがて渡す。向かへの岸より山田次郎が放つ矢に、畠山、馬の額を
「たそ。」
と問へば、
「
と答ふ。
「いかに大串か。」
「さん
大串次郎は畠山には
「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばでつきまゐらせて候ふ。」
と言ひければ、
「いつもわ殿ばらは、重忠がやうなる者にこそ助けられむずれ。」
と言ふままに、大串を引つ下げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただ直つて、
「
とぞ名のつたる。
ときは(旧暦)1月20日過ぎ(※暦上は1月から春)のことなので、比良の高嶺や志賀の山(※現在の滋賀県南西部の山々)の古雪も消え、谷々の氷も溶けて、(宇治川の)水は今ちょうど水かさを増していて、白波が激しくたって流れ落ち、川の瀬の波の盛り上がりも大きく滝のような音を立て、逆巻く水の勢いも速かった。夜はもうほのぼのと空けてくゆくが、川霧が深く立ちこめて、馬の毛(の色)も鎧の緒(の色)もはっきり見えない。
このとき、大将軍の九郎御曹司(=源義経)が、川のほとりに進み出て、水面を見渡して、配下の人々の心を見ようと思われたのだろうか、
「どうしようか、淀か、
とおっしゃるので、畠山という、そのときまだ21歳になったばかりの者が、進み出て申し上げたことには、
「鎌倉で重々この川のご評定はございましたよ。ご存じない海や川が、突然出てきましたならばまだしも。この川は、近江の湖(=琵琶湖)の出口なので、待っても待っても水は干上がるまい。また、橋を誰が渡して差し上げることができようか(いや、できない)。治承の合戦のときに足利忠綱は鬼神として渡ったのか。この私・重忠が瀬の深さを試してみましょう。」
といって、丹の党(※武蔵国の武士団)を主力として、500騎あまりがびっしりとくつわを並べるところに、平等院の北東、橘の小島が崎から、武者2騎が馬を駆り立てて出てきた。1騎は梶原源太景季、もう1騎は佐々木四郎高綱だ。人目にはなんとも見えないけれど、内心は前へと心がはやっていたので、梶原は佐々木に1
「この川は西国一の大河だぞ。腹帯(※鞍を馬の腹に括り付ける帯)がゆるんで見えますな。お締めなさい。」
と言うので、梶原はそういうこともあるだろうと思ったのだろう、左右の鐙を踏ん張って、手綱を馬のたてがみに引っかけて、腹帯を解いてから締め直していた。その間に、佐々木はすっと駆け抜けて、川へざっと入っていた。梶原は、騙されたと思ったのだろうか、すぐに続いて川へ入った。(梶原は、)
「やあやあ佐々木殿、功名を立てようとして失敗なさるな。水の底には大綱が張ってあるだろう。」
と言うので、佐々木は太刀を抜き、馬の足に引っかかった大綱をぷつりぷつりと切っては切り、
梶原が乗っていた馬・摺墨は川の半ばから矢を曲げたような形に押し流されて、はるか下流から乗り上がった。佐々木が、鐙を踏ん張って立ち上がり、大声をあげて名乗ったことには、
「宇多天皇から9代の子孫、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣だぞ。我こそはと思う者たちは、この高綱と勝負せよ。」
といって、大声を上げて駆ける。
畠山は、500騎あまりで、すぐに渡った。向こう岸から山田次郎が放った矢に、畠山は、馬の額を深く射られてしまい、(馬が)弱ったので、川の中に弓を杖にして(馬から)降りて立っていた。岩に砕ける波が、兜の吹き返しの前方をざっと押し上げたが、ものともせず、水の底をくぐって、向こう岸へなんとかたどり着いた。岸へ上がろうとすると、後ろから誰かがむんずと引っ張っている。(畠山が)
「誰だ。」
と問うと、
「
と答える。
「なんと、大串か。」
「さようでございます。」
大串次郎は、畠山にとっては
「あまりに水が速くて、馬は押し流されてしまいました。力が及ばなくて掴まり申し上げたのです。」
と言ったので、(畠山は)
「いつもお前たちは、私・重忠のような者に助けられるのだなあ。」
と言うが早いか、大串を引き下げて、岸の上へ投げ上げた。(大串は)投げ上げられて、まっすぐに立ち上がって、
「武蔵国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣だぞ。」
と名乗った。敵も味方もこれを聞いて、一斉にどっと笑った。
作者は不詳。『徒然草』には
鎌倉時代前半、1230年前後の成立と考えられている。
滅び行く平家一門の運命を描く軍記物語。無常観を主題としている。
琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。
大串次郎の「徒歩組の先陣」があまりにも格好悪くておかしかったから。
大串は、川に流されて上がれなくなっていたところ、烏帽子親の畠山に投げ上げてもらって、ようやく渡河できた。
騎馬で「一文字にざっと渡って」先陣を切った佐々木四郎高綱とは対照的だ。