源氏の兵ども、すでに平家の船に乗り移りければ、
「世の中は今はかうと見えてさうらふ。見苦しからむ物ども、みな海へ入れさせたまへ。」
とて、
「中納言殿、戦はいかにやいかに。」
と、口々に問ひたまへば、
「めづらしき
とて、からからと笑ひたまへば、
「なんでふのただ今の
とて、声々にをめき叫びたまひけり。
二位殿はこのありさまを御覧じて、日ごろ
「わが身は女なりとも、敵の手にはかかるまじ。君の御供に参るなり。御心ざし思ひまゐらせたまはむ人々は急ぎ続きたまへ。」
とて、船端へ歩み
「尼ぜ、我をばいづちへ具して行かむとするぞ。」
と仰せければ、 いとけなき君に向かひたてまつり、涙を抑へて申されけるは、
「君はいまだ知ろしめされさぶらはずや。前世の十善戒行の御力によつて、今万乗のあるじと生まれさせたまへども、悪縁に引かれて、御運すでに尽きさせたまひぬ。まづ
と、泣く泣く申させたまひければ、
「波の下にも都の候ふぞ。」
と慰めたてまつつて、
源氏の兵士たちは、もう平家の船に乗り移ったので、船の漕ぎ手と舵取りたちは、射殺され、斬り殺されて、船(の進路)を直すこともできずに、船底に倒れ伏していた。新中納言知盛卿は、小船に乗って、(帝の)御所となっている船に参上し、(新中納言は)
「世の中はもはやこれまでとお見受けいたします。見苦しいような物どもを、全部海にお投げ入れください。」
といって、船の舳先から船尾まで走り回り、掃いたり拭いたり、ごみを拾い、自身の手で掃除なさった。女房たちは、
「中納言殿、戦いはどうなのかどうなのか。」
と口々にお聞きになると、(新中納言は)
「珍しい東国の男を、ご覧になることでしょう。」
と言って、からからとお笑いになるので、(女房たちは)
「こんなときに、何というご冗談でしょう。」
と言って、口々に大声で騒ぎ叫びなさった。
二位殿(=平時子)はこの様子をご覧になって、日頃から覚悟なさっていたことなので、濃い灰色の二枚重ねの衣を頭からかぶり、練り絹の袴のそばを結び紐に高く挟んで、神璽を脇に挟み、宝剣を差し、帝(=安徳天皇)をお抱き申し上げて、
「我が身は女だといっても、敵の手にはかかるまい。帝のお供に参るのだ。(帝への誠意の)お志を思い申し上げなさっているような者たちは、急いで続きなさいませ。」
と言って、船の端に歩み出られた。帝は今年8歳におなりになったけれど、お歳のわりにはずいぶん大人びていらっしゃって、お姿は美しく辺りも照り輝くほどだ。お髪は黒くゆらゆらとしていてお背中より下に垂れていらっしゃる。(帝は)驚いたご様子で、
「尼よ、私をどこへ連れて行こうとしているのか。」
とおっしゃったので、(二位殿は)あどけない帝にお向かい申し上げ、涙を抑えて申し上げなさったことには、
「陛下はまだご存じでいらっしゃいませんか。前世での善い行いのお力によって、今万乗の主としてお生まれになったけれど、悪い因縁に引かれて、ご運はとうとう尽きなさった。まずは東にお向かいになって、伊勢の大神宮にお暇を申し上げなさり、その後西の方の浄土の(菩薩様の)お迎えを受けようとお思いになり、西にお向かいになってお念仏をお唱え申し上げなさいませ。この国は
と、泣く泣く申し上げなさったので、(帝は)山鳩色のご衣装にびんづらをお結いになって涙を激しくお流しになり、小さくてかわいらしいお手を合わせて、まず東を伏し拝み、伊勢の大神宮にお暇を申し上げなさり、その後西にお向かいになり、お念仏を唱えなさったので、二位殿はすぐに(帝を)お抱き申し上げて、
「波の下にも都がございますよ。」
とお慰め申し上げて、深い海の底へとお入りになった。
作者は不詳。『徒然草』には
鎌倉時代前半、1230年前後の成立と考えられている。
滅び行く平家一門の運命を描く軍記物語。無常観を主題としている。
琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。
源氏(東国の武士)が攻めてくるという切迫した状況のこと。
それを、新中納言は「珍しい東国の男たちをご覧になるでしょう」と冗談めかして表現している。
これに対して、女房たちが「今の