刑部卿敦兼は、見目のよににくさげなる人なりけり。
その北の方は華やかなる人なりけるが、五節を見はべりけるに、とりどりに華やかなる人々のあるを見るにつけても、まづわが男のわろさ心憂くおぼえけり。
家に帰りて、すべてものをだにもいはず、目をも見合はせず、うちそば向きてあれば、しばしは何事の出で来たるぞやと、心も得ず思ひゐたるに、しだいにいとひまさりて、かたはらいたきほどなり。
さきざきのやうに一所にもゐず、方を替へて住みはべりけり。
ある日、刑部卿出仕して、夜に入りて帰りたりけるに、出で居に火をだにもともさず、装束は脱ぎたれども、畳む人もなかりけり。
女房どもも、みな御前の目引きに従ひて、差し出づる人もなかりければ、せむかたなくて、車寄せの妻戸を押し開けて、ひとり眺めゐたるに、更たけ、夜静かにて、月の光風の音、物ごとに身にしみわたりて、人の恨めしさも取り添へておぼえけるままに、心を澄まして、篳篥を取り出でて、時の音に取り澄まして、
ませの内なる 白菊も
移ろふ見るこそ あはれなれ
われらが通ひて 見し人も
かくしつつこそ かれにしか
と、繰り返し歌ひけるを、北の方聞きて、心はや直りにけり。それより殊に仲らひめでたくなりにけるとかや。優なる北の方の心なるべし。
刑部卿(※現代で言うと裁判所長官。かなり偉い。)敦兼は、容姿がじつに醜い人だった。
その妻は美しい人であったが、五節の舞(※雅楽に合わせた踊り)を見ましたときに、それぞれに美しい人々がいるのを見るにつけても、まず自分の夫の(容姿の)悪さが心苦しく思われた。
家に帰って、(妻は敦兼に)まったく口もきかず、目さえも合わせず、そっぽを向いているので、(敦兼は)しばらくは何が起こったのかと、心当たりも無く思っていたところ、(妻は)次第に(敦兼を)ますます厭うようになって、気の毒なほどだ。
以前のように同じ所にも居ないで、部屋を変えて住んでいました。
ある日、刑部卿が仕事に出て、夜になって帰ってきたところ、応接間に灯りさえともさず、装束は脱いだけれども、畳む人も居なかった。
女房たちも、みな奥様の目配せに従って、(敦兼のところに)出てくる人もいないので、どうしようもなくて、牛車の車寄せの戸を押し開けて、ひとりで物思いに耽っているうちに、夜が更け、静まりかえって、月の光や風の音が、様々なことが身にじーんと感じられて、妻への恨めしさも加わって感じられてきたので、心を澄まして、篳篥(※雅楽で使う縦笛)を取り出して、その時にふさわしい澄んだ音で吹き、
ませ垣の中にある 白菊も
枯れて色あせるのを見るのも 悲しいことだ。
私が通って 会ったあなたも
こうなる(白菊が枯れる)ように 私から離れてしまった
と、繰り返し歌ったのを、妻が聞いて、(敦兼を厭う)心はすぐに直った。それからは特に夫婦仲が素晴らしくなったということだ。優しい妻の心なのだろう。
『古今著聞集』
伊賀守 橘 成季によって編纂された世俗説話集。
鎌倉時代、1254年成立。
『今昔物語集』『宇治拾遺物語』とまとめて、日本三大説話集といわれる。
726話が収録されており、説話集としては非常にボリュームが大きい。
内容によって30篇に分類されて話が収録されており、百科事典のような整然とした構成になっている。
物語の核となるので、きっちり品詞分解して理解しよう。
ませ | うち | ||
籬 | の | 内 | なる |
名 | 格助 | 名 | 助動 |
竹、柴でできた垣。 | 所在 (連体形) |
しらぎく | |
白菊 | も |
名 | 係助 |
うつ | み | |
移ろふ | 見る | こそ |
動 | 動 | 係助 |
ハ四 (連体形)→体言化 |
マ上一 (連体形)→体言化 |
強意 |
あはれなれ |
形動ナリ |
「こそ」の結び(已然形) |
かよ | |||
われら | が | 通ひ | て |
名 | 格助 | 動 | 接助 |
ハ四 (連用形) |
み | ひと | ||
見 | し | 人 | も |
動 | 助動 | 名 | 係助 |
マ上一 (連用形) |
過去 (連体形) |
かく | し | つつ | こそ |
副 | 動 | 接助 | 係助 |
こう。 | サ変 (連用形) |
かれ | に | しか |
動【掛詞】 | 助動 | 助動 |
ラ下二「枯れ」+「離れ」 (連用形) |
完了 (連用形) |
過去 「こそ」の結び(已然形) |
「白菊」→「枯れ」
「見し人(妻)」→「離れ」
心変わりの様子を、「白菊の色が変わる」ことに例えた文章は、『蜻蛉日記』の☞うつろひたる菊
「枯れ」と「離れ」の掛詞は『百人一首』にも選ばれている源宗于の☞山里は 冬ぞさびしさ まさりける
があります。
いずれも900年代の作品ですから、『古今著聞集』の200年以上前の作品になります。合わせて読んでおくと参考になるでしょう。