男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年のしはすの二十日あまり一日の、戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。
ある人、県の四年五年はてて例のことども皆しをへて、
(中略)
(一月)十一日。暁に船を出して室津をおふ。人皆まだねたれば海のありやうも見えず、唯月を見てぞ西東をば知りける。かかる間に皆夜明けて手あらひ例の事どもして昼になりぬ。いましはねといふ所にきぬ。わかき童この所の名を聞きて
「はねといふ所は鳥の羽のやうにやある」
といふ。まだ幼き童のことなれば人々笑ふ。時にありける女の童なむこの歌をよめる、
まことにて 名に聞く所 はねならば
飛ぶがごとくに みやこへもがな
とぞいへる。男も女もいかで
世の中に 思ひやれども 子を恋ふる
思ひにまさる 思ひなきかな
といひつゝなむ。
男も書くという日記というものを、女(の私)もしてみようと思って書くのである。ある年の12月21日の戌の刻(夜7時〜9時)に(土佐を)出発する。その様子を、少しもの(この日記)に書き付ける。
ある人が、県(国司)としての4〜5年経って務めをすべて終えて、解由(引き継ぎ)などを終わらせて、住んでいる屋敷から出て船に乗るところへ移る。あの人この人と、知っている人も知らない人も、見送りをする。長年よくつきあいをしていた人たちは、別れがたく思って、その日はずっとあれやこれやと騒いでいるうちに、夜が更けてしまった。
(承平5年=西暦935年)1月11日。夜明け前に船を出して、室津を目指す。人々はみなまだ寝ているので、海の様子もわからず、ただ月を見て方角をわかったことだ。こうしているうちに、夜がすっかり明けて、顔や手を洗って(食事など)いつも決まっていることをしていると、昼になってしまった。ちょうど今、羽根というところに来た。幼い子供がこの地名を聞いて、
「はね というところは、鳥の羽のような場所なの」
と言う。まだ幼い子供の言うことなので、人々は笑う。そのとき、そこにいた女の子がこんな歌を詠んだ。
本当に 地名を聞いたように 「羽根」というならば
飛ぶように 都へ帰りたいよ
と言ったのだ。誰も彼も、どうにかして早く都へ帰りたいと思う気持ちがあるので、この歌が良い歌というわけではないのだが、人々は確かにそうだと思って(この歌のことを)忘れない。この「羽根」という地名のことを聞いた子供をきっかけとして、また昔の人(=土佐で亡くしてしまった紀貫之の娘のこと)をのことを思い出してしまい、いつになったら(娘のことを)忘れられるのだろう。今日はいつにもまして母が悲しい気持ちになってしまうことといったらない。(京の都から土佐へ)下ったときの人数が足りないので、昔の歌で「数が足らなくなって帰って行くらしい」と詠んでいることを思い出して、ある人(筆者としての女性からみた紀貫之本人)が詠んだ。
世の中で いろいろ思うのだが 亡き子を想う
(親の)気持ちに勝る 思いは無いなあ
と繰り返し言うことだよ。
60歳を過ぎた紀貫之が、土佐(高知)の守に任じられた際、その帰路を綴った日記である。
作者は男性だが、女性が書いた形としている。これは公人としての立場を離れるため、そして細やかな心情を表現できるひらがな(当時は女性が使うのが一般的だった)を使用するためである。
『古今和歌集』に収録されている和歌(詠み人知らず)。
北へ行く 雁ぞ鳴くなる つれてこし
数は足らでぞ かへるべらなる
北へ帰る 雁が鳴いている。(南へ来たときに)連れてきた 数が足りずに 帰るから(泣くの)だろうか。