あづまぢの道のはてよりも、なほ奥つ方に生い出でたる人、 いかばかりかはあやしかりけむを、いかに思ひはじめけることにか、
「世の中に物語といふ物のあんなるを、いかで見ばや。」
とおもひつつ、 つれづれなる昼間、宵居などに、姉・継母などやうの人々の、 その物語、かの物語、光源氏のあるやうなど、 ところどころ語るを聞くに、いとどゆかしさまされど、 わが思ふままに、そらにいかでかおぼえ語らむ。いみじく心もとなきままに、等身に薬師仏をつくりて、 手洗ひなどして、人まにみそかに入りつつ、
「京にとくあげたまひて、物語の多くさぶらふなる、あるかぎり見せたまへ。」
と、身を捨てて
年ごろ遊び慣れつる所を、あらはにこぼち散らして、たちさはぎて、 日の入りぎはの、いとすごく霧りわたりたるに、車に乗るとて、 うち見やりたれば、人まには参りつつ、額をつきし薬師仏の立ち給へるを、 見捨てたてまつる、悲しくて、人知れずうち泣かれぬ。
東海道の果て(常陸の国、今の茨城県)よりも、さらに奥にあるところ(の千葉のど田舎)に育った人(私)は、どんなにか身分が低い育ちであっただろうに、どう思い始めたことだか、
「世の中には物語というものがあるらしいが、それを、どうにかして見たいものだ。」
とずっと思っていて、暇な昼間や、夜に入ってからの家族の語らいのときなどに、姉・継母などの人々が、その物語のこと、あの物語のこと、光源氏(=源氏物語の主人公)の様子など、(物語の)所々について話しているのを聞いていると、いっそう(物語を)読みたい・知りたい気持ちがつのるけれど、自分が思うとおりに、(姉・継母は)暗記してどうして覚えて話してくれるだろうか。(いや、暗記して全部を話してくれはしない。) たいそうじれったいままに、等身大で薬師如来像を作って、手を洗ったりして、人目の見ていないときに密かに(薬師如来像を置いた部屋に)入っては、
「(薬師如来様が)京の都に早く(私を)上京させなさって、物語がたくさんありますのを、ありったけお見せください」
と、身を投げて額を地面につけ、お祈り申し上げていたところ、13歳になる年、「上京しよう。」ということになって、9月3日に家を出発して、いまたちというところに移動する。
長年遊び慣れてきたところを、中がすっかり見えるほど壊して、騒ぎまわって、夕日の沈み際の、とてもひどく霧がかっているときに、車(牛車)に乗ると言って、ふと(周りを)眺めていると、人目の見ていないときに何度も参上して、額をついていた薬師如来像がお立ちになっているのを、見捨て申し上げるのが、悲しくて、人知れずしんみり泣けてくるのだった。
父の任地であった上総の国(現在の千葉県)で、「物語」にあこがれていた少女時代から始まり、上京し宮仕えをした経験を経て晩年に至るまで、西暦1020年〜1059年頃の、約40年を綴った日記。
物語好きの姉・継母に囲まれて、「物語」にどっぷりハマってしまった片田舎のオタク女子が、憧れの京都というきらびやかな都で宮仕えをして揉まれ…というストーリーであると考えてもらうとわかりやすい。
直訳すると「東海道の果てよりも、さらに奥にあるところに生まれた人」。
日記の書き手である菅原孝標の女のこと。
・昔を思い出して、自分のことを客観的に捉えている
・「物語」の始まりのような書き出しにすることで、自分の生涯を「物語」めかして書こうとしている
ちなみに当時の文化の中心は京都であり、東国(現在の関東地方)は地方の外れで田舎だった。
その東国へ至る東海道の果て(茨城)からさらに進んだ上総の国(千葉)は、「超ド田舎」といってもいいような場所だった。