二階の窓から

『宇治拾遺物語』より
虎のわに取りたること

作者不詳

原文 現代語訳 ノート

原文

 これも今は昔、筑紫つくしの人、商ひしに新羅しらぎに渡りけるが、商ひ果てて帰る道に、山の根に沿ひて、舟に水くみ入れむとて、水の流れでたる所に舟をとどめて水をくむ。

 そのほど、舟に乗りたる者、舟端ふなばたにゐて、うつぶして海を見れば、山の影映りたり。高き岸の三、四十丈ばかり余りたる上に、虎つづまりゐて、物をうかがふ。その影水に映りたり。そのときに人々に告げて、水くむ者を急ぎ呼び乗せて、手ごとにを押して、急ぎて舟を出だす。その時に虎躍り下りて舟に乗るに、舟はとく出づ。虎は落ち来るほどのありければ、いま一丈ばかりをえ躍りつかで、海に落ち入りぬ。

 舟を漕ぎて急ぎて行くままに、この虎に目をかけて見る。しばしばかりありて、虎海より出で来ぬ。泳ぎてくがざまに上りて、みぎはにひらなる石の上に登るを見れば、左の前足を膝よりかみ食ひ切られて、血あゆ。わにに食ひ切られたるなりけりと見るほどに、その切れたるところを水に浸して、ひらがりをるを、いかにするにかと見るほどに、沖のかたより鰐、虎の方を指して来ると見るほどに、虎右の前足をもて、鰐の頭に爪をうち立てて、陸ざまに投げ上ぐれば、一丈ばかり浜に投げあげられぬ。のけざまになりてふためく。おとがひの下を躍りかかりて食ひて、二度ふたたび三度みたびばかりうち振りて、なよなよとなして、肩にうちかけて、手を立てたるやうなる岩の五、六丈あるを、三つの足をもちて下り坂を走るがごとく登りて行けば、舟の内なる者ども、これがしわざを見るに、なからは死に入りぬ。

 舟に飛びかかりたらましかば、いみじきつるぎ、刀を抜きて合ふとも、かばかり力強く早からむには、何わざをすべきと思ふに、肝心きもごころ失せて、舟漕ぐ空もなくてなむ、筑紫には帰りけるとかや。


現代語訳

 これも今となっては昔のことだが、筑紫(現在の福岡県)の人が、商売をしに新羅(朝鮮半島南東部にあった国)へ渡ったが、商売が終わって帰る道で、山の麓に沿って、船に水をくみ入れようとして、水が流れ出ているところに船を泊めて水をくんだ。

 そのとき、船に乗っている者が、船の端に座って、うつ伏せになって海を見ていると、山の影が(海面に)映っている。高い海岸の三、四十丈(約100m)ほどあまり上に、虎が身をかがめていて、何かを狙っている。その影が水面に映っているのだった。そのとき、(船端に座っていた人は)人々に(虎が居ることを)伝えて、水をくんでいる者を急いで呼んで船に乗せて、手に手に櫓を押して、急いで船を出した。そのとき、虎が飛び降りてきて船に乗ろうとしたが、船は(一足)早く出た。虎は(船に)落ちてくる(まで少し)間があったので、あと一尺(約3m)ぐらいを飛びつくことができず、海に落ちてしまった。

 船を漕いで急いで行きながら、この虎を注目して見ていた。すこしたって、虎が海から出てきた。泳いで陸に上がって、水際に平らな石があるところへ登るのを見ると、左の前足を膝から噛み食いちぎられて、血が流れている。鰐に食いちぎられたのだなあとみていると、(虎は)その切れた足を水に浸して、(体を)伏せているのを、(人々は)どうするのだろうかと見ていると、沖の方から鰐が、虎の方を目指して来るなあと見ていると、虎は右の前足で、鰐の頭に爪を突き立て、陸の方に投げ上げると、一丈ほど浜に投げ上げられた。(鰐は)ひっくり返ってバタバタしている。(虎は鰐の)喉元の下に飛びかかって食らいつき、二回三回ほど振り回して、(鰐を)くたくたにして、肩に乗せて、手を立てたような形で、五、六丈(約15m)ほどある岩を、3本の足で下り坂を走るように(軽々と)登っていくので、船の中にいる人々は、この(虎の)行為を見て、半ば気を失って(呆然として)しまった。

 もし(虎が)船に飛びかかっていたら、すごい剣や刀を抜いて対峙したとしても、これほど力が強く素早いなら、何ができるものかと思うと、度胸も無くなってしまい、船を漕ぐ方向もわからなくなって(=正気を失って)、筑紫に帰ってきたそうな。


作品

宇治拾遺物語うじしゅういものがたり

巻第3の7、第39話より。
鎌倉時代、13世紀初頭の成立。作者不詳。全15巻、日本・中国・天竺(インド)の三国を舞台とした説話が197編 収録されている。序文によると、源 隆国によって書かれた『宇治大納言物語』(現在は散逸)に収録されずに漏れた話が集められたものである。

主に仏教説話、世俗説話、民間伝承が取り上げられており、この中には「わらしべ長者」や「舌切り雀」のような話も含まれている。


ノート

虎が「切れたるところを水に浸し」たのは何故?

自分の腕を食いちぎった鰐をおびき寄せて、返り討ちにするため。
すぐ反撃できるように、「平がりをる」(体を伏せる)体勢をとって身構えていた。

人々が「舟漕ぐ空もなく」なった、とはどういう意味?

まず「空」の意味を古語辞書で調べてみよう。

@ 太陽・月・星・雲のある空間。天。
A 空模様。天候。 転じて、情景、雰囲気。
B 方向。目当て。場所。境遇。
C 気持ち。心境。
D 暗唱すること。
E てっぺん。

といった意味があるが、ここで意味が通じるのは、Bの「方向」だ。
船を漕ぐ方向もわからないほど取り乱した、ということ。

筑紫の人々は、日本では見ることのできない虎 vs 鰐のバトルに度肝を抜かれ、虎の力強さと素早さにすっかり気圧されて、命からがら帰ってきた。

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伊東 玉美 (翻訳)
文庫: 224ページ
出版社: 角川書店 (2017/9/23)

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