「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに
とのたまはせけるを、ふと推し量りに、
「いみじうなむ才がある。」
と
この式部の
「口惜しう、
とぞ、常に嘆かれはべりし。
それを、
「男だに、才がりぬる人は、いかにぞや。華やかならずのみはべるめるよ。」
と、やうやう人の言ふも聞き留めて後、一といふ文字をだに書きわたしはべらず、いと手づつにあさましくはべり。
読みし書などいひけんもの、目にもとどめずなりてはべりしに、いよいよ、かかること聞きはべりしかば、いかに人も伝へ聞きて憎むらむと、恥づかしさに、
宮も忍びさせたまひしかど、殿も内裏も
一条天皇が、源氏物語を、(お付きの)人に読ませなさってお聞きになっていたときに、(天皇が)
「この人(=源氏物語の作者・紫式部)は、『日本書紀』を読んだのだろう。本当に学才があるようだ。」
とおっしゃったのを、(小耳に挟んだ左衛門の内侍は)ふと当て推量で、
「(紫式部は)たいそう学才がある。」
と殿上人などに言いふらして、(紫式部のことを)日本紀の御局とあだ名を付けたということが、たいそう馬鹿馬鹿しいことです。私の実家の侍女の前ですら(漢文の学才を)包み隠していますのに、そのようなところで学才をひけらかしたりしませんよ。
実家の式部の丞という人(=紫式部の兄弟・
「残念だ、(紫式部が)男の子でないことは、実に運が無かったなあ。」
と、いつも嘆いていらっしゃったよ。
それなのに、
「男ですら、才能があるようにひけらかしている人は、どうだろうか。出世して栄えることはないだけのようですよ。」
と、次第に人の言うことを聞き留めてからは、「一」という漢字さえ書ききることもしていませんし、たいそう不器用で呆れることです。
以前読んだ漢文などといったものは、目にも留めなくなりましたのに、ますます、このようなことを聞きましたので、どんなにか人々は伝え聞いて(私のことを)憎らしく思っているだろうと、恥ずかしさに、御屏風の上に書いてあることさえ読まないふりをしていましたのに、中宮さまが、御前で、文集(=白居易の『白氏文集』)のところどころを(私に)読ませなさるなどして、(天皇が)そういう(=漢詩の)ことをお知りになりたそうにお思いになっていたので、(私は)たいそう人目を忍んで、(他の)人がお仕えしていない合間に、一昨年の夏頃から、『
中宮さまも人目を忍んでいらっしゃいましたが、殿(=藤原道長)も天皇もその様子をお知りになって、(殿が書道家に)漢籍などをすばらしくお書かせになって、殿が(中宮さまに)差し上げなさる。本当にこのように(中宮さまが私に漢文を)読ませなさるなどとは、おそらく、あの口の軽い(左衛門の)内侍は、聞くことができないだろう。もし知ったならば、どんなに悪口を言うものだろうかと、すべて世の中のことは煩わしくつまらないものですね。
『紫式部日記』より
1010年頃に完成された日記。当時の写本のタイトルは「紫日記」としているものが多い。
紫式部が作者という説が有力だが、はっきりとした記載はなく、確定的ではない。
平安時代には、漢字を「真名・男文字」、ひらがなを「仮名・女文字」と呼んでいた。男性にとっては、漢文の勉強が必須だったのだ。
ところが、紫式部の兄・式部の丞は漢文が苦手だった。いっぽう、そばで聞いていた紫式部はそれをすらすらと覚えてしまった。父親としては、式部の丞にこそ漢文を覚えて欲しかったのだが……。残念。
陰湿な紫式部
紫式部日記の他の部分も読んでみて欲しいのですが、紫式部は実に「陰キャ」です。意図的に嫌な感じに要約してみます。
「☞ 若宮誕生」のシーンでは
『(私は)常人と比べて悩むことがとっても多いし、周りの人みたいに軽々しく振る舞うことができないわ~。つらいわ~。(チラッチラッ)』
「☞ 清少納言」に対しては
『清少納言は浮ついていて、漢字を書き散らして風流ぶってて調子に乗ってるわ……。許せん……。(プルプル)』
そして、この「日本紀の御局」のシーンでは
『ちょっと私が賢くて漢文が書けるだけで陰口を叩かれたりして、ほんと嫌な世の中よね~。(チラッチラッ)』
といった調子。やかましいわ。