秘する花を知ること。秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず、となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。そもそも、一切の事、諸道芸において、その家々に秘事と申すは、秘するによりて大用あるが故なり。しかれば、秘事といふことをあらはせば、させることにてもなきものなり。これを、
「させることにてもなし。」
と言ふ人は、いまだ秘事といふことの大用を知らぬが故なり。まづ、この花の口伝におきても、
「ただめづらしきが花ぞ。」
とみな人知るならば、
「さてはめづらしきことあるべし。」
と思ひまうけたらむ見物衆の前にては、たとひめづらしきことをするとも、見手の心にめづらしき感はあるべからず。
見る人のため花ぞとも知らでこそ、為手の花にはなるべけれ。されば、見る人は、ただ思ひのほかにおもしろき上手とばかり見て、これは花ぞとも知らぬが、為手の花なり。さるほどに、人の心に思ひも寄らぬ感を催す手だて、これ花なり。
例へば、弓矢の道の手立てにも、名将の案・計らひにて、思ひのほかなる手立にて、強敵にも勝つことあり。これ、負くる方のためには、めづらしき理に化かされて、破らるるにてはあらずや。これ、一切の事、諸道芸において、勝負に勝つ理なり。かやうの手立ても、事落居して、かかるはかりごとよと知りぬれば、その後はたやすけれども、いまだ知らざりつる故に負くるなり。さるほどに、秘事とて、一つをばわが家に残すなり。
ここを以て知るべし。たとへあらはさずとも、かかる秘事を知れる人よとも、人には知られまじきなり。人に心を知られぬれば、敵人油断せずして用心を持てば、かへつて敵に心をつくる相なり。敵方用心をせぬときは、こなたの勝つこと、なほたやすかるべし。人に油断させて勝つことを得るは、めづらしき理の大用なるにてはあらずや。さるほどに、わが家の秘事とて、人に知らせぬを以て、生涯の主になる花とす。秘すれば花、秘せねば花なるべからず。
秘密にすることで生じる“花”(=芸の素晴らしさ)を知ること。秘密にするから“花”なのであって、秘密にしなければ“花”ではありえない、ということだ。この区別を知っておくことが、“花”において大事なことだ。そもそも、あらゆること、様々な道や芸において、その家々に秘伝と申すのは、秘密にすることで大きな効果があるからだ。だから、秘密と言うことを明らかにすると、たいしたことでもないものだ。これを、
「たいしたことでもないなあ。」
と言う人は、まだ秘事というものの大きな効果を知らないからだ。ともかく、この“花”の口承の秘伝においても、
「ただ珍しいことが“花”なのだ。」
と人々が皆知っていたら、
「ならば珍しいことがあるのだろう。」
と期待しているような観客の前では、たとえ珍しいこと(=能の演技)をしても、観客の心に珍しいという気持ちが起こるはずがない。
観客にとって“花”があると知らないでいてこそ、演者の“花”になる。だから、観客は、ただ予想外に趣のある見事な演技だとだけ見て、これが“花”であるとも知らないのが、演者の“花”だ。そういうことで、人の心に思いがけない感銘を起こさせる方法、これが“花”なのだ。
例えば、弓矢(=戦い・兵法)の道の手法にも、名将の案や謀略で、予想外な手法で、強敵に勝つことがある。これは、負ける側にとっては、思いがけない道理にだまされて、破られるのではないか。これは、あらゆること、様々な道・芸において、勝負に勝つための道理だ。このような手法も、事が落着してから、このような謀略だったのだよと知ったら、その後は(引っかからないようにすることは)簡単だけれども、まだ(謀略を)知らなかったために負けるのだ。そういうわけで、秘事として、一つを自分の家に残すのだ。
これで理解できただろう。たとえ(秘事の中身を)明かさずとも、こういった秘事を知っている人だとすら、人には知られてはならないのだ。人に(秘事を知っているという)心を知られてしまったなら、敵は油断せずに用心をするので、かえって敵に注意させることになってしまう。敵が用心をしないときは、こちらが勝つことは、いっそう簡単になるだろう。人に油断させて勝ちを掴むことは、意表を突く道理の大きな効用ではないか。そういうことで、自分の家の秘事として、人に知らせないことが、一生“花”の主となる秘訣だ。秘密にしていれば“花”であり、秘密にしなければ“花”であることはできない。
能楽に関する現存する最古の論説書。
父・
1909年に秘伝を解いて発表されるまでは、能の秘伝書として存在すらほとんど知られていなかった。まさに「秘すれば花なり」だ。
古語辞典で「花」の意味を調べてみよう。
はな【花】
@ 草木の花。
ア)とくに梅の花
イ)とくに桜の花
A はなやかなこと。美しいこと。
B 栄えること。名誉。
C うわべが美しく真実味がないこと。
D ≪能楽用語≫(Aから転じて)芸の美しさ・魅力。
例えば兵法においては、
意表を突く戦略を隠す
→敵は後から知れば対策を取れるが、知らないから勝てる。
意表を突く戦略を持っていること自体を隠す
→敵が用心せず油断するので、なおいっそう簡単に勝てる。
⇒ 秘事を知っているということすら、秘密にしておくべきだ。そうすることで、真の“花”の持ち主となることができる。