晋明帝数歳、坐元帝膝上。有人従長安来。元帝問洛下消息、潸然流涕。明帝問、
「何以致泣。」
具以東渡意告之。因問明帝、
「汝意謂長安何如日遠。」
答曰、
「日遠。不聞人従日辺来。居然可知。」
元帝異之。
明日集群臣宴会、告以此意、更重問之。乃答曰、
「日近。」
元帝失色曰、
「爾何故異昨日之言邪。」
答曰、
「挙目見日、不見長安。」
晋の明帝数歳にして元帝の膝上に坐す。人の長安より来たる有り。元帝洛下の消息を問ひて、潸然として涕を流す。明帝問ふ、
「何を以て泣くを致す。」と。
具さに東渡の意を以て之に告ぐ。因りて明帝に問ふ、
「汝が意に謂へらく長安は日の遠きに何如。」と。
答へて曰はく、
「日遠し。人の日辺より来たるを聞かず。居然として知るべし。」と。
元帝之を異とす。
明日群臣を集めて宴会し、告ぐるに此の意を以てし、更に重ねて之を問ふ。乃ち答へて曰はく、
「日近し。」と。
元帝色を失ひて曰はく、
「爾何の故に昨日の言に異なるか。」と。
答へて曰はく、
「目を挙ぐれば日を見るも、長安を見ず。」と。
晋の明帝が数歳のとき、父の元帝の膝の上に座っていた。長安からの来客があった。元帝は洛陽(かつての都)の様子を尋ね、はらはらと涙を流した。明帝は尋ねた。
「(父上は)どうして泣いているのか。」と。
(元帝は)王朝が東へと逃れてきた経緯を丁寧に教えてあげた。そして明帝に尋ねた。
「おまえは、長安は太陽とどちらが遠いと思うか。」と。
(明帝は)答えて言うことには、
「太陽の方が遠い。人が太陽からやって来たという話を聞かない。はっきりと分かることだよ。」と。
元帝は、我が子の推察力がただならないものだと感じた。
次の日、(元帝は)群臣を集めて宴会を開き、この話を皆に披露し、(明帝に)もう一度同じ質問をした。すると明帝が答えて言うことには、
「太陽の方が近い。」と。
元帝は青ざめて言った。
「おまえ、どうして昨日の答えと違うんだ。」と。
(明帝が)答えて言うことには、
「見上げると太陽が見えるけれど、長安はどこには見えないから。」と。
『世説新語』より。
444年頃、劉義慶の作。
後漢から東晋までの著名人の逸話を集めて編纂した寓話集。
西晋王朝(265〜316)は、北方の異民族(匈奴など)の侵略を受けて、滅亡してしまった。
晋王室最後の生き残りだった司馬睿は東へ逃れ、建康(現在の南京市)を都として東晋を建国した。これが本文中で言う「東渡」だ。
初代皇帝は司馬睿(元帝)で、明帝はその子。二代皇帝となった。
我が子、明帝の頭の良さを自慢できなくなってしまったから。
昨日は長安と太陽の距離について理路整然と答え、ただならぬ子だと感心し、今日の宴会で皆に自慢をした。
ところが、今日になって答えが逆になり、「長安より太陽が近い」という間違った答えに変わってしまった。