居頃之、会燕太子丹質秦亡帰燕。
燕太子丹者、故嘗質於趙。而秦王政生於趙、其少時与丹驩。及政立為秦王、而丹質於秦。秦王之遇燕太子丹善。故丹怨而亡帰。
帰而求為報秦王者、国小力不能。其後、秦日出兵山東、以伐斉・楚・三晋、稍蚕食諸侯、且至於燕。燕君臣皆恐禍之至。
於是太子予求天下之利匕首、得趙人徐夫人匕首、取之百金。使工以薬焠之、以試人、血濡縷、人無不立死者。乃装為遣荊卿。
燕国有勇士秦舞陽。年十三殺人、人不敢忤視。乃令秦舞陽為副。
荊軻有所待、欲与倶。其人居遠未来。而為治行。頃之、未発。
太子遅之、疑其改悔。乃復請曰、
「日已尽矣。荊卿豈有意哉。丹請、得先遣秦舞陽。」
荊軻怒、叱太子曰、
「何太子之遣。往而不返者、豎子也。且提一匕首、入不測之強秦。僕所以留者、待吾客与倶。今太子遅之。請、辞決矣。」
遂発。
太子及賓客知其事者、皆白衣冠以送之。至易水上、既祖、取道。高漸離擊筑、荊軻和而歌、為變徵之聲、士皆垂涙涕泣。又前而為歌曰、
「風蕭蕭兮易水寒、壮士一去兮不復還。」
復為慷慨羽聲、士皆瞋目、髮盡上指冠。於是荊軻遂就車而去、終已不顧。
居ること之を頃くして、会燕の太子丹秦に質たるも亡げて燕に帰る。
燕の太子丹は、故嘗て趙に質たり。而して秦王政は趙に生まれ、其の少き時丹と驩ぶ。政立ちて秦王と為るに及びて、丹秦に質たり。秦王の燕の太子丹を遇すること善からず。故に丹怨みて亡げ帰る。
帰りて為に秦王に報ゆる者を求むるも、国小にして能はず。其の後、秦日兵を山東に出だし、以つて斉・楚・三晋を伐ち、稍く諸侯を蚕食し、且に燕に至らんとす。燕の君臣皆禍の至らんことを恐れる。
是に於いて太子予め天下の利なる匕首を求めて、趙人徐夫人の匕首を得て、之を百金に取る。工をして薬を以つて之を焠がしめ、以つて人に試みるに、血縷を濡らせば、人立ちどころに死せざる者無し。乃ち装して為に荊卿を遣はさんとす。
燕国に勇士秦舞陽なるもの有り。年十三にして人を殺し、人敢へて忤視せず。乃ち秦舞陽をして副と為らさしむ。荊軻待つ所有り、与に倶にせんと欲す。其の人遠きに居りて未だ来ず。而るに行を治むるを得ず。之を頃くするも、未だ発せず。
太子之を遅しとし、其の改悔せしを疑ふ。乃ち復た請ひて曰はく、
「日已に尽く。荊卿豈に意有りや。丹請ふ、先づ秦舞陽を遣はすを得ん。」
と。荊軻怒り、太子を叱して曰はく、
「何ぞ太子の遣はすや。往きて返らざる者は、豎子なり。且つ一匕首を提げて不測の強秦に入る。僕の留まる所以の者は、吾が客を待ちて、与に倶にせんとすればなり。今太子之を遅しとす。請ふ、辞決せん。」
と。遂に発す。
太子及び賓客その事を知る者は、皆白衣冠を以つて之を送る。易水の上に至り、既に祖して、道を取る。高漸離筑を撃ち、荊軻、和して歌ひ、変徴の聲を為す。士皆涙を垂れて涕泣す。又前みて歌を為りて曰はく、
「風蕭蕭として易水寒く、壮士一たび去りて復た還らず。」
と。復た羽聲を為して慷慨す。士皆目を瞋らし、髮盡く上がりて冠を指す。是に於いて荊軻車に就きて去る。終に已に顧みず。
(荊軻が燕に)やって来てからしばらくたった頃、ちょうど秦の国へと人質として行っていた太子丹が逃げ帰ってきた。
燕の太子丹は、昔は趙の国へ人質に取られていた。そして秦王の政は趙に生まれて、(二人とも人質だったので)若いとき丹と仲が良かった。その後、政は秦王に即位することとなり、丹は秦の国の人質となった。秦王は燕の太子丹をあまり良く待遇しなかった。こうして丹は(秦王を)怨み、逃げ帰ったのである。
国へ帰ってから自分の(怨みを晴らす)ために秦王に報復してくれる人間を捜したが、国が小さく(適任者を見つけられず)無理であった。その後、秦の国は毎日のように軍を山東へと送り込み、斉・楚・三晋を攻撃し、少しずつ領土を広げ、今にも燕にたどり着こうとしていた。燕の君主や人々は、戦乱の時代がやってくるのではないかと恐れていた。
そこで、太子丹は前もって天下の鋭い短刀を探し求め、趙の徐夫人の短刀を見つけた。これを百金で入手した。職人に刀身に毒薬を塗らせ、焼いてもらい、これを人に試してみると、わずかに血が滲んだだけでも、すぐに死なない者はなかった。そこで(太子丹は、荊軻のために)準備を整え、荊軻を秦へ送り込もうとした。
燕の国には秦舞陽という勇士がいた。十三歳のときに人を殺し、世の人々は正視しようとしなかった。そこで(太子丹は)秦舞陽に補助役をさせることにした。
荊軻には待つ人がいて、(秦へ暗殺をしに行くのは、その人と)一緒に行こうとしていた。其の人は遠くにいて、まだ来なかった。よって出発することができなかった。しばらく経っても、(荊軻は)出発しなかった。
太子丹は(荊軻の出発が)遅いと思い、(荊軻が)秦王暗殺を思い直したのではないかと疑った。そこでもう一度求めていった。
「日はすでに沈んだ。荊卿よ、何か考えがおありなのですか。私太子丹からのお願いです。まずは秦舞陽を(秦の国へ)送らせてください。」
荊軻は怒って、太子を叱って言った。
「どうして秦舞陽を送るのですか。行って帰らないというのは子供です。私はたった一本の短刀を持って、何が起こるか分からない強国秦へと入るのです。私がここに留まっているのは、私の友人を待って、一緒に秦に入ろうと思ったからです。今、太子は私の決断を遅いと思っておられる。別れを告げさせてください。」
と。こうしてとうとう出発することになった。
(秦王暗殺に行くという)事情を知っている太子と賓客は、みな白装束(葬式の礼服)を着て荊軻を見送った。易水の畔へ出ると、道祖神を祭った(=道中の安全を祈った)。高漸離は筑を打ち、荊軻は歌を歌い、とても寂しげな声が響き渡った。人々はみな涙を流して泣いた。(荊軻は)前に進み出て歌を作って言った。
「風はヒュウヒュウと寂しげに吹き 易水は寒い。壮士は一度去ったら二度とは戻らない。」
もう一度大きな声で歌い気持ちが高ぶった。人々はみな目を怒らして、髪はすっかり逆立って冠を突き刺すほどであった。そして荊軻は馬車に乗って出発した。最後まで一度も振り返ることはなかった。
司馬遷「史記」より。
荊軻は、信頼の置ける友人を待って(万全の体制で)秦に入ろうと考えており、秦への出発が遅れていた。太子丹は、荊軻が秦王暗殺を思いとどまっているのではないかと疑ってしまい、疑われたことに荊軻が怒った。
結局、信頼の置ける友人を待つことなく、不安な状況のまま秦舞陽とともに秦へと入ることになった。