ながらへば 又此比や しのばれん
うしと見しよぞ いまは恋しき
ながらへ | ば |
動 | 接助 |
ハ下二 (未然形) |
仮定条件 |
また | こ | ごろ | ||
又 | 此 | の | 比 | や |
副 | 代名 | 格助 | 名 | 係助 |
疑問 |
しのば | れ | む |
動 | 助動 | 助動 |
バ四 (未然形) |
自発 (未然形) |
推量 「や」の結び(連体形) |
み | よ | ||||
うし | と | 見 | し | 世 | ぞ |
形ク | 格助 | 動 | 助動 | 名 | 係助 |
「憂し」 (終止形) |
マ上一 (連用形) |
過去 (連体形) |
強意 |
いま | こひ | |
今 | は | 恋しき |
名 | 係助 | 形シク |
「ぞ」の結び(連体形) |
(この世に)生き長らえたら
また(つらいことが多い)今日この頃のことを
懐かしく思われるのでしょうかねえ。
つらいと思っていた昔が
今では恋しく思われることだ。
出典『新古今集』雑下・1843
つらいときも、後から振り返れば懐かしく思えるようになる。 と述懐する歌だ。
68番歌『心にも あらで此世に ながらへば こひしかるべき よはの月かな』(三条院)と語句が類似している(「ながらふ」「この世」「恋し」)。
果たして藤原清輔は何に苦しんでこの歌を詠んだのか? によって、この歌の解釈は随分と変わってくる。 成立状況を追ってみよう。
『清輔集』の詞書には「三条内大臣いまだ中将にておはしけるとき」とある。
さて、この「三条内大臣」とは誰なのかだが、清輔が活躍した時代と被る三条の名が付く内大臣は、
三条公教(中将在位:1130〜1136)
三条実房(中将在位:1158〜1166)
のいずれかだ。
果たしてどちらの状況で詠まれたのかだが、定説は「2.実房が中将だったとき」のほうだ。
こちらの方が色々な苦労が重なった時期だし、昔を懐かしむという内容と考えると、やはり年齢を重ねてからのほうがごく自然に感じられるかもしれない。
ただし、同じような述懐歌である83番『世の中よ』(藤原俊成)は俊成が27歳のときの作であるし、20代前後でしみじみとした歌を詠むのは不自然でもなかった、ということには注意しておこう。
藤原清輔朝臣(1104 - 1177)
藤原顕輔の子だが、顕輔からはどうも嫌われていたようだ。
顕輔が1144年に崇徳天皇から『詞花集』の撰を命じられ、清輔もその補助に当たったのだが、対立してほとんど意見が容れられなかった。
平安後期から鎌倉時代にかけて歌壇の中心を為していた「六条藤家」の3代目。 『万葉集』をよく研究し、平安時代の歌学の大成者ともいわれる。
『千載集』以下の勅撰集には94首入集。