大江山 いくのゝ道の とほければ
まだふみもみず 天のはしだて
おほえやま |
大江山 |
名 |
みち | |||
いくの | の | 道 | の |
【掛詞】 | 格助 | 名 | 格助 |
地名「生野」 +動・名「行く 野」 |
場所 | 主格 |
とほ | |
遠けれ | ば |
形ク | 接助 |
(已然形) | 原因 |
み | ||||
まだ | ふみ | も | 見 | ず |
副 | 【掛詞】 | 係助 | 動 | 助動 |
名「文」 +動「踏み」 |
マ上一 (未然形) |
打消 (終止形) |
あまのはしだて |
天橋立 |
名 |
京都府北部にある砂州。 日本三景の一つ。 |
大江山を
行く生野の道が
遠いので
まだ(母上からの)手紙を読んでもいないし、
天橋立の地を踏んだこともない。
「いくの」 → 地名「生野」 と 動詞「行く」+名詞「野」
「ふみ」 → 名詞「文」 と 動詞「踏み」
「踏み」→「橋」
出典『金葉集』雑上・550
母の和泉式部が丹後へ出向いているときに行われた歌合わせの際、藤原定頼から意地悪で「母上がいなくて不安でしょう」と言われて、咄嗟に出てきたという歌。
詳しい状況は『十訓抄』の☞大江山いく野の道 に詳しいので、こちらを参照。
母親譲りの当意即妙な才能を発揮した逸話が『袋草紙』『俊頼髄脳』『十訓抄』など多くの説話集・歌論で喧伝されたことで、非常に有名な歌となった。
小式部内侍(999? -1025)
和泉式部と橘道貞の子。
藤原教通・公成などと交際。
母の和泉式部も多くの熱愛で世を騒がせたが、負けず劣らずの恋多き女流歌人だった。
万寿2年(西暦1025年)に公成との子を出産した直後、25,6歳という若さで母に先立って病死してしまった。
勅撰集には4首入集。