いにしへの ならの都の 八重桜
けふ九重に にほひぬるかな
いにしへ | の |
名 | 格助 |
昔。 奈良時代のこと。 |
なら | みやこ | ||
奈良 | の | 都 | の |
名 | 格助 | 名 | 格助 |
やへざくら |
八重桜 |
名 |
ここのへ | ||
けふ | 九重 | に |
名【掛詞】 | 名 | 格助 |
「今日」、「京」 | 内裏。皇居。 | 場所 |
にほ | ||
匂ひ | ぬる | かな |
動 | 助動 | 終助 |
ハ四 (連用形) |
完了 (連体形) |
詠嘆 |
昔(奈良時代)の
奈良の都の
八重桜が
今日は新しい京の都の九重(=皇居)で
美しく咲き匂っていることだなあ。
以下の3つが対となる言葉として用いられている。
八重桜 ⇔ 九重(=宮中)
いにしへ ⇔ けふ(今日)
古都・奈良 ⇔ 新都・けふ(京)
出典『詞花集』春・29
奈良から京都の宮中にやってきた八重桜の美しさを詠み上げた歌。
「九重」とは、昔中国の王城が門を九重に作ったことから、宮中のことを言うようになった。
掛詞も用いつつ、様々な対になる言葉を詠み込んでおり、技巧にも凝っている。
この歌が詠まれた背景は『袋草紙』、『応永抄』などに書かれており、非常に有名な話となっていたようだ。
一条天皇の御代、奈良から献上された八重桜を受け取る際、歌を詠む大役が紫式部から突然伊勢大輔に譲られた。
作者の伊勢大輔は、代々和歌を得意とする家柄だったとはいえ、当時は新参女房だった。
その新参女房がどんな歌を詠むのか、と皆が注目する中でこの歌が披露され、その当意即妙の技巧の高さに皆驚嘆したという。
伊勢大輔(生没年未詳)
大中臣輔親の娘。 大中臣氏は、頼基、能宣、輔親と代々和歌を得意とする家柄であった。
上東門院 藤原彰子(紫式部、和泉式部、赤染衛門なども従えていた)に仕え、高階成順と結婚。
1032年の『上東門院菊合』以降、たびたび歌合わせに出て活躍した。
晩年(1060年頃)は、出家して山里に暮らした。
『後拾遺集』以下の勅撰集に51首入集。