この世の名残り、
向かふの二階は、何屋とも、おぼつかなさけ最中にて、まだ寝ぬ
「どうで女房にや持ちやさんすまい。いらぬものぢやと思へども」
げに思へども、嘆けども、身も世も思ふままならず、いつを今日とて今日が日まで、心の伸びし夜半もなく、思はぬ色に、苦しみに、
「どうしたことの縁ぢややら、忘るる暇はないわいな。それに振り捨て行かうとは、やりやしませぬぞ。手にかけて、殺しておいて行かんせな。放ちはやらじと泣きければ」
歌も多きにあの歌を、時こそあれ今宵しも、うたふは誰そや、聞くは我、過ぎにし人も我々も、一つ思ひとすがり付き、声も惜しまず泣きゐたり。
いつはさもあれ、此の夜半は、せめてしばしは長からで、心もなつの夜の習ひ、命を追はゆる鶏の声、明けなばうしや天神の、森で死なんと手を引きて、梅田堤の
この世の別れ、夜も別れと、死にに行く身をたとえると、あだしが原の霜が一足踏むごとに消えてゆくようで(=死に一歩ずつ近づいているようで)、あたかも夢の中で見る夢のように哀れなことだ。おや、数えてみると、暁の七つの鐘が六つ鳴って、残る一つがこの世の鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響く。鐘ばかりであろうか、草も木も空も、(これが最後の)名残だと見上げると。雲は心(の苦しみ)もなく(流れていき)水の音(も無心に流れている)。北斗星は冴えてその光が水に映っている。夫婦の星である天の川のように、梅田の橋を鵲の橋と契りを込め、いつまても、私とあなたは夫婦星のように、かならず添い遂げようとすがり寄り、二人の間に振り降りる涙で、川の水かさも増すだろう。
(川の)向こうの二階は、何屋なのか、はっきりとわからないが、まだ寝ずに明かりを灯し、声高に、今年の心中の批評について、話がはずんでいるようだ。それを聞いていると気持ちが暗くなり、ふがいなくも、昨日今日までは、(心中のことを)他人事のように言っていたが、明日からは自分のことも噂の一つになり、世間で話題になるだろう。歌うなら歌えと、(誰かが)歌うのを聞いていると、
「♪どうせ(私を)女房に持ちはなさらないのだろう。(あなたのことを思うのは)意味のないことだと思うけれど」
まったくその通りだと思うけれども、そして嘆きもしたけれども、自分の身も境遇も思うとおりにならず、いつも今日までずっと、心が晴れ晴れとした夜はなく、思いも寄らぬ色恋沙汰に、苦しんでいたところに、(また誰かが歌う)
「♪どういった因縁であろうか、(あなたを)忘れる暇はないのだよ。それなのに(私を)振り捨てていこうとは、行かせはしませんよ。(あなたの)手で、(私を)殺しておいて行きなさい。離しはしまいと泣いたので」
歌もたくさんあるというのにあの歌を、時は色々あろうがよりによって(心中しようとしている)今夜、歌うのは一体誰であろう、聞くのは私だ、(あの歌の中で)死んでしまった人も我々も、同じ思いだと二人はすがりつき、声も惜しまずに泣いているのだった。
いつもはそうあっていいのだが、今夜はせめて少しは長くあって欲しいのにそうではなくて、心ない夏の夜のならいで(短く)、命を追われるような鶏の声が(聞こえる)、夜が明けたら憂鬱だ、天神の森で、死のうと手を引く。梅田堤の小夜烏が、明日は私の身体(死骸)を餌食にするだろう。ほんとうに今年はあなた様も25歳の厄年、わたしも19歳の厄年なので、想い合わせたような厄祟りは、二人の縁の深さの印だろうか。神や仏に願掛けていた、(夫婦になりたいという)現世の願いを今ここで未来(来世)に廻し向けて、あの世で一つ蓮の花の上に生まれかわろう(=一緒に極楽浄土に行こう)と、爪繰る数珠の108個の玉に、涙を同じようにたくさん流し、哀れさは尽きることがないが、(心中をする曾根崎天神への)道は尽き、心も空もどんより暗く、風がひっそりとした曾根崎の森にたどり着いたよ。
人形浄瑠璃は、三味線の伴奏と、
西暦1703年4月に大坂で話題となった若い男女の心中事件を、事件の1ヶ月後の5月に竹本座という劇場で上演したところ、これが大ヒットした。
浄瑠璃というのは劇なので
・リズム感のよさ
・韻を踏む(掛詞)
・前後の言葉の繋がり(縁語)
に気を配って書かれている。「道行」の一場面でも、かなりの数があるので見ていこう。
字余り、字足らずが時おりあるが、全編を通して七五調がベースになっている。
・おぼつかなさけ
おぼつかない + 情け
・よしあし
善し悪し + 葭葦
・くれはどり
くれ(心が暗くなる) +
・なつ
無し + 夏
・うし
憂し + 牛
霜 → 消え
よしあし(葭葦) → 言の葉 ← 草、繁る
くれはどり(呉織) → あや(綾)
鶏 → うし(牛)、烏
(動物繋がり)
うし(牛) → 天神
(牛は天神の使いと言われるため)