二階の窓から

百人一首 100 百敷や


百敷や ふるき軒端の しのぶにも
なほあまりある むかし成りけり

順徳院じゆんとくゐん

品詞分解

ももしき
百敷
間投助
多くの石で築いた城。
転じて、「宮中」を指す古語。
詠嘆
ふる   のきば
古き 軒端
形ク 格助
(連体形)
 
しのぶ
【掛詞】 格助 係助
動「偲ぶ」(バ四・終止形)
+名「忍ぶ(草)」
 
なほ あまり ある
やはり。 ラ変
(連体形)
むかし
なり けり
助動 助動
断定
(連用形)
詠嘆
(終止形)

現代語訳

宮中の
古い軒端に生えている
忍ぶ草を見るにつけても、
思い偲んでも
やはり偲びきれないほど
昔(の天皇の御代が慕わしいこと)だなあ。

作品の解説

出典続後撰集ぞくごせんしゅう』雑下・1205

1216年頃に詠まれた、『二百首和歌』の中の1首。
承久の乱で佐渡へ流罪になる5年前、作者が20歳のときだ。すでに鎌倉幕府の力が大きくなっており、かつての王朝時代全盛期を憧れつつ詠んだと思われる。

登場する言葉の端々に、過去への憧憬現在への諦めが現れているので、取り上げていこう。

百敷ももしき

多くの石で築いた城、という意味。万葉集時代は、枕詞「百敷の」(→「大宮」・つまり宮中)として用いられた。
本来は、天皇を褒め称える歌に用いられたのだが、この歌ではなんと天皇本人が用いている点が異例といえる。
また平安時代以降は、宮中のことは「九重」と表現することが一般的だった。「百敷」は当時からしても古語だ。過去の宮中の栄華を思いながら、わざと選ばれた言葉だと思われる。

*しのぶ(草)

シダ類の一種。荒廃した邸宅の象徴として登場することが多い。
幕府に権力を奪われ、衰退していく宮廷を暗示しているのか。
また、昔を思い「偲ぶ」との掛詞にもなっている。なんともまあ後ろ向きだ。

以上のように、武士の台頭と、天皇家・貴族文化の衰退は表裏一体であり、この「百敷や〜」歌は平安朝 終結の象徴といえる。

百人一首1番の作者・天智天皇(☞1番 秋の田の〜)は、対照的に「大化の改新」で蘇我氏の勢力を一掃して、平安朝への道を切り開いた天皇だ。
歌の内容も対照的なので、ぜひ1番に戻って比べてみてほしい。
定家は、百人一首で平安朝盛衰の歴史をなぞれるように意識していたのではないだろうか。

作者

順徳院じゅんとくいん(1197 - 1242)

第84代天皇(在位1210 - 1221)。
後鳥羽天皇の第三皇子。
父・後鳥羽院の強い意向で土御門天皇の譲位を受け、父とともに承久の乱を起こすが失敗。
佐渡へ配流となり、21年後の1232年に崩御。

父の影響もあり、和歌には非常に熱心だった。『続後撰集』以下の勅撰集に159首が入集。

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島津 忠夫 (翻訳)
文庫: 317ページ
出版社: 角川書店; 新版 (1999/11)
言語: 日本語
商品パッケージの寸法: 15 x 10.6 x 1.4 cm
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