二階の窓から

百人一首 099 人もをし


人もをし 人も恨めし あぢきなく
よをおもふゆゑに 物思ふ身は

後鳥羽院ごとばのゐん

品詞分解

ひと を  
愛し
係助 形シク
(終止形)
ひと うら   
恨めし
係助 形シク
(終止形)
 
あぢきなく
形ク
(連用形)
おも  
思ふ ゆゑ
格助 格助
ハ四
(連体形)
【故】
理由。
ものおも  
物思ふ
係助
ハ四
(連体形)

現代語訳

人が愛しくも思われ、
人が恨めしくも思われることだ。
どうしようもなく
この世のことを思うために、
色々と悩むこの私は。

作品の解説

出典続後撰集ぞくごせんしゅう』雑中・1202

建暦けんりゃく2年(1212年)12月に、定家・家隆・秀能らから各20首を献上され、それに「人もをし〜」歌を含む自らの20首を加えて『五人百首』とした。
後鳥羽上皇といえば、承久の乱を起こして隠岐へ流罪となったことが有名。
「隠岐に流された身を嘆いているのかな?」と思ったなら鋭いが、承久の乱は承久3年(1221年)なので、その9年前の歌だ。

詠まれた当時は、鎌倉幕府との関係は険悪であったものの、幕府への恨みを歌ったわけではなかった。
とはいっても、後鳥羽上皇が隠岐に流されそこで崩御した人生史を、定家も思い浮かべながらこの歌を選んだことは間違いないだろう。

*「愛し」き人と、「恨めし」き人

この2人は、別の人なのか、同じ人なのかで解釈が変わってくる。

  1. 別人説
    世の中には良い人もいれば、悪い人もいる。
  2. 同人説
    世の人は、良いところと悪いところ両方を持っている。

ここで、百人一首の配列を思い出してみると非常に面白い。

  1. 西園寺公経
    親幕府派の公家。承久の乱を密告
  2. 藤原定家
    後鳥羽上皇のため『新古今集』の編纂で和歌の才能を発揮するが、次第に意見が対立。以降険悪な関係
  3. 藤原家隆
    後鳥羽上皇に和歌を教え、流罪後もやりとりを続けた忠臣
  4. 後鳥羽上皇
    承久の乱を企て、流罪

別人説でいえば、
愛し」→家隆
恨めし」→定家・公経

同人説でいえば、関係が悪化してしまった定家のことになる。

*百人一首で異例のルール破り

百人一首には、「勅撰和歌集から選ぶ」という大原則がある。
ところが、この「人もをし〜」歌は、1251年成立の『続後撰集』で初めて勅撰和歌集に入った。百人一首の成立時期は1235年頃と言われるので、成立当時は勅撰歌ではなかったのだ。

実は、定家は『新勅撰集』(1235年完成)の撰者となっており、ここに「人もをし〜」歌を入れようとしていた。ところが、鎌倉幕府に対する政治的配慮から、罪人である後鳥羽院・順徳院の歌は外さざるを得なかった。
定家としては、勅撰集に入れるつもりだったのに、入れられなかった無念から、百人一首でのルールを敢えて破ったのだろう。

作者

後鳥羽院ごとばのいん(1180 - 1239)

第82代天皇(在位1183 - 1198)。
1198年に譲位して、上皇として院政を行う。その後の天皇は、第一皇子・土御門天皇→第三皇子・順徳天皇。

上皇となった後も積極的に政治に関わり、鎌倉幕府に対して強硬な態度をとった。
1221年に、鎌倉幕府の執権・北条義時を討つように命じて、承久の乱を起こすが失敗。
隠岐へ流罪となり、1239年に隠岐で崩御した。

和歌に非常に熱心で、1199年以降多くの歌会・歌合を催すようになる。
特に『千五百番歌合』は、30人の著名歌人から100首ずつ詠進させるという前代未聞の規模のものだった。
『新古今集』以下の勅撰集に256首入集。

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島津 忠夫 (翻訳)
文庫: 317ページ
出版社: 角川書店; 新版 (1999/11)
言語: 日本語
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