人もをし 人も恨めし あぢきなく
よをおもふゆゑに 物思ふ身は
ひと | を | |
人 | も | 愛し |
名 | 係助 | 形シク |
(終止形) |
ひと | うら | |
人 | も | 恨めし |
名 | 係助 | 形シク |
(終止形) |
あぢきなく |
形ク |
(連用形) |
よ | おも | |||
世 | を | 思ふ | ゆゑ | に |
名 | 格助 | 動 | 名 | 格助 |
ハ四 (連体形) |
【故】 理由。 |
ものおも | み | |
物思ふ | 身 | は |
動 | 名 | 係助 |
ハ四 (連体形) |
人が愛しくも思われ、
人が恨めしくも思われることだ。
どうしようもなく
この世のことを思うために、
色々と悩むこの私は。
出典『続後撰集』雑中・1202
建暦2年(1212年)12月に、定家・家隆・秀能らから各20首を献上され、それに「人もをし〜」歌を含む自らの20首を加えて『五人百首』とした。
後鳥羽上皇といえば、承久の乱を起こして隠岐へ流罪となったことが有名。
「隠岐に流された身を嘆いているのかな?」と思ったなら鋭いが、承久の乱は承久3年(1221年)なので、その9年前の歌だ。
詠まれた当時は、鎌倉幕府との関係は険悪であったものの、幕府への恨みを歌ったわけではなかった。
とはいっても、後鳥羽上皇が隠岐に流されそこで崩御した人生史を、定家も思い浮かべながらこの歌を選んだことは間違いないだろう。
この2人は、別の人なのか、同じ人なのかで解釈が変わってくる。
ここで、百人一首の配列を思い出してみると非常に面白い。
別人説でいえば、
「愛し」→家隆
「恨めし」→定家・公経
同人説でいえば、関係が悪化してしまった定家のことになる。
百人一首には、「勅撰和歌集から選ぶ」という大原則がある。
ところが、この「人もをし〜」歌は、1251年成立の『続後撰集』で初めて勅撰和歌集に入った。百人一首の成立時期は1235年頃と言われるので、成立当時は勅撰歌ではなかったのだ。
実は、定家は『新勅撰集』(1235年完成)の撰者となっており、ここに「人もをし〜」歌を入れようとしていた。ところが、鎌倉幕府に対する政治的配慮から、罪人である後鳥羽院・順徳院の歌は外さざるを得なかった。
定家としては、勅撰集に入れるつもりだったのに、入れられなかった無念から、百人一首でのルールを敢えて破ったのだろう。
後鳥羽院(1180 - 1239)
第82代天皇(在位1183 - 1198)。
1198年に譲位して、上皇として院政を行う。その後の天皇は、第一皇子・土御門天皇→第三皇子・順徳天皇。
上皇となった後も積極的に政治に関わり、鎌倉幕府に対して強硬な態度をとった。
1221年に、鎌倉幕府の執権・北条義時を討つように命じて、承久の乱を起こすが失敗。
隠岐へ流罪となり、1239年に隠岐で崩御した。
和歌に非常に熱心で、1199年以降多くの歌会・歌合を催すようになる。
特に『千五百番歌合』は、30人の著名歌人から100首ずつ詠進させるという前代未聞の規模のものだった。
『新古今集』以下の勅撰集に256首入集。