おほけなく 浮世の民に おほふ哉
わがたつ杣に すみぞめの袖
おほけなく |
形ク |
(連用形) 身の程知らずだ。不相応だ。 |
う | よ | たみ | ||
憂き | 世 | の | 民 | に |
形ク | 名 | 格助 | 名 | 格助 |
(連体形) |
かな | |
おほふ | 哉 |
動 | 終助 |
ハ四 (連体形) |
詠嘆 |
わ | た | そま | ||
我 | が | 立つ | 杣 | に |
名 | 格助 | 動 | 名 | 格助 |
主格 | タ四 (連体形) |
材木をとる山。 |
そで | ||
すみぞめ | の | 袖 |
名【掛詞】 | 格助 | 名 |
「墨染」 +「住み初め」 |
(※体言止め) |
身の程もわきまえずに
(法師として)世の人々に
覆い掛けることだなあ。
木々に囲まれた山(=比叡山)に
住みついた私の墨染めの袖を。
出典『千載集』雑中・1137
作者・慈円が比叡山に住み始めたのは20代後半からのこと。作中の「住み初め」という言葉から推測すると、その頃詠まれたと思われる。つまり1180年頃ということになる。
その頃は、養和の飢饉(1181年)や源平合戦(1185年 壇ノ浦の戦い)など、世の中が乱れた時代だった。
そんな世の中を、若い慈円が「未熟な私ながらも、仏教の力でお救いしよう」という気持ちをこめて詠んだ歌だろう。
ちなみに「袖で世の中を覆う」という表現は以下の歌にもみられる。この歌を本歌取りした、という説もある。
ちょっと意味合いが違うので、実際の所は表現の参考にした程度だろう。
大空に おほふばかりの 袖もがな
春咲く花を 風にまかせじ『後撰集』 64 詠み人知らず【現代語訳】
大空を覆うぐらい大きな袖がほしい。
春に咲く花(=桜)を風に任せて散らせたくない。
前大僧正慈円(1155 - 1225)
藤原忠通の子。
1192年に天台座主(比叡山延暦寺の住職)となった。政変によりその職を追われたが、計4回にわたって天台座主に就任した。
九条良経(後京極摂政)や藤原定家等とともに、御子左家歌人としても活躍。
私家集として『拾玉集』がある。
『千載集』以下の勅撰集には267首入集。