我袖は しほひに見えぬ おきの石の
人こそしらね かはくまもなし
わ | そで | ||
我 | が | 袖 | は |
代名 | 格助 | 名 | 係助 |
所有 |
しほひ | み | ||
潮干 | に | 見え | ぬ |
名 | 格助 | 動 | 助動 |
ヤ下二 (未然形) |
打消 (連体形) |
おき | いし | ||
沖 | の | 石 | の |
名 | 格助 | 名 | 格助 |
所在 | 連用修飾 |
ひと | し | ||
人 | こそ | 知ら | ね |
名 | 係助 | 動 | 助動 |
強意 | ラ四 (未然形) |
打消 「こそ」の結び(已然形) |
かは | ま | ||
乾く | 間 | も | なし |
動 | 名 | 係助 | 形ク |
カ四 (連体形) |
(終止形) |
私の袖は、
潮が引いたときでも見えない
沖の石のように
人は知らないことだろうが、
乾く間もない。
(=いつもあなたのことを思って泣いているよ)
出典『千載集』恋2・760
『寄石恋』がお題として出されたときに詠まれた歌。
『石』は固い・無情の象徴(当時流行の『白氏文集』)であり、それを恋と結びつけるというのは、とても難しいお題だ。
「沖の石」が歌の中心。
海の沖にある石は、干潮時でも海から出てくることはなく、常に濡れている。
これを、いつも泣いていて濡れている自分の袖に例えたのである。
この「沖の石」という表現が独創的だが、「涙でずっと濡れた袖」を「水面下の石」に例えたのは二条院讃岐の歌が初出ではない。 和泉式部の以下の歌を本歌取りしたものだ。
我が袖は 水の下なる 石なれや
人に知られで 乾く間もなし和泉式部集・94より【現代語訳】
私の袖は水の下にある石なのかなあ。
人には知られないけれど、乾く間もない。
第一・五句は全く一緒であり、他の部分も似ている。
大きく異なるのは、
・和泉式部 → 水
・二条院讃岐 → 沖(海の干満がある)
という点だ。 海の干満を想像することで、少し気持ちの揺れ動きが感じられる。
讃岐の父・源三位頼政が、潮の満ち引きで出たり沈んだりする「磯の石」を詠み込んだ歌をいくつか作っており、これを取り込んだのだろう。
なごの海の しほひ潮満つ 磯の石と
なれるか君が 見え隠れする源三位頼政集 より【現代語訳】
名児の海の、潮が引いては満ちる磯の石となったのか
君が見えたり隠れたりすることだよ。
二条院讃岐(1141? - 1217?)
源三位頼政の娘。
二条天皇の女房となり、天皇が崩御した後は藤原重頼に嫁いだ。
19歳になる1159年以降、内裏和歌会にたびたび参加した。1178年には父とともに『別雷社歌合』に出詠。
その後出家し、しばらくあまり表舞台には出てこなくなったが、1200年頃〜歌壇に復帰。
『千載集』以下の勅撰集に73首入集。