有明の つれなくみえし 別れより
暁ばかり うきものはなし
ありあけ | |
有明 | の |
名 | 格助 |
夜明けに出ている月 (月齢20日頃) |
主格 |
み | ||
つれなく | 見え | し |
形ク | 動 | 助動 |
(連用形) | ヤ下二 (連用形) |
過去 (連体形) |
わか | |
別れ | より |
名 | 格助 |
起点 |
あかつき | |
暁 | ばかり |
名 | 副助 |
程度 |
う | |||
憂き | もの | は | なし |
形ク | 名 | 係助 | 形ク |
(連体形) | (終止形) |
明け方に浮かんでいる月が
(別れた女のように)素知らぬ様子に見えた
あの別れのとき以降は、
明け方ほど
つらいものはない。
出典『古今和歌集』恋3・625
ここでいう「別れ」とは、男が女のもとへ通って ともに寝た翌朝の「後朝の別れ」のこと。
「つれなく」(素知らぬ様子に)見えたのは、 @「有明の月」とする説 A「女」とする説 それぞれある。
(顕昭いわく)『これは女のもとより帰るに、我は明けぬとて出づるに、有明の月は明くるも知らずつれなく見えしなり。その時より暁は憂く覚ゆともよめり。ただ女に別れしより暁は憂き心なり。』
つれなく見えしこの心にこそはべらめ。この詞の続きは及ばず艶にをかしくもよみてはべるかな。これ程の歌一つ詠み出でたらむ、この世の思ひ出にはべるべし。<現代語訳>
顕昭が言うことには、『女のところから帰るときに、自分は(夜が)明けた(から帰るぞ)と思って家を出たのに、有明の月は(夜が)明けたことも知らずに浮かび、よそよそしく素知らぬ様子に見えたのだ。』と言った。
素知らぬ様子に見えた、という心情はこういうことなのです。(以下略)
つまり、百人一首の撰者とされる藤原定家は、「つれなく見えた」のは@「有明の月」とする説を支持していた。
ただし、「女もつれない様子をしていて、それが素知らぬ様子を見せる月とリンクして、つらくなっている」とする説(契沖など)も根強くある。
これには根拠がある。この歌が『古今和歌集』(※作者の忠岑も撰者の一人)で、「逢わない辛い歌」が並ぶ中に配列されていることから、おそらく忠岑はこちらの心情で詠んでいると思われる。
そのため、こちらのニュアンスも入れ込んで現代語訳をした。
壬生忠岑( 生没年未詳 )
藤原定国の随身(警護のために随従した役人)を務めていた。
早くから歌人として活躍し、屏風歌の作も多い。
勅撰和歌集『古今和歌集』の撰者の一人で、三十六歌仙のひとりでもある。