二階の窓から

『大鏡』より
三船さんせんざえ

作者不詳

原文 現代語訳 ノート

原文

 一年ひととせ、入道殿の大堰川おほゐがは逍遥せうえうせさせたまひしに、作文さくもんの船、管絃くわんげんの船、和歌の船と分かたせたまひて、その道にたへたる人々を乗せさせたまひしに、この大納言殿の参りたまへるを、入道殿、

「かの大納言、いづれの船にか乗らるべき。」

 とのたまはすれば、

「和歌の船に乗りはべらむ。」

 とのたまひて、詠みたまへるぞかし、

小倉山 あらしの風の 寒ければ 紅葉の錦 着ぬ人ぞなき

 申し受けたまへるかひありてあそばしたりな。御自らものたまふなるは、

「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩を作りたらましかば、名の上がらむこともまさりなまし。口惜しかりけるわざかな。さても、殿の、『いづれにかと思ふ。』とのたまはせしになむ、われながら心おごりせられし。」

 とのたまふなる。一事の優るるだにあるに、かくいづれの道も抜けでたまひけむは、いにしへも侍らぬことなり。


現代語訳

 ある年、入道殿(=藤原道長)が大堰川で船遊びをなさったときに、作文(=漢詩)の船、管弦の船、和歌の船、と3つにお分けになって、それぞれの道に長けた人々をお乗せになったのだが、この大納言(=藤原公任きんとう)が参上なさったので、入道殿が、

「あの大納言は、どの船にお乗りになるのだろうか。」

 とおっしゃったので、(大納言は)

「和歌の船に乗りましょう。」

 とおっしゃって、お詠みになったことには、

小倉山よ、 嵐山からの風が 寒いので (紅葉が風に乗って飛んできて)
紅葉の着物を 着ない人はいないことだよ。

 と(ご自分から和歌の船を選んで)願い出なさっただけあって、(素晴らしく)お詠みになったことだよ。(大納言が)ご自分でもおっしゃったということには、

「作文の船に乗るのがよかったかなあ。それでこのぐらいの漢詩を作ったならば、名が上がるようなことももっとあっただろうに。残念だったことだなあ。それにしても、入道殿が、『どの船に乗ろうと思うのか。』とおっしゃったのには、我ながら得意に思われたことだ。」

 とおしゃったということだ。一つのことに優れていることさえあまりないのに、このようにどの道にも卓越していらっしゃったようなことは、昔にもございませんことだよ。


作品

大鏡おほかがみ

 作者未詳。源氏の貴族階級、かつ藤原道長のことを詳しく知ることのできた人物。
 成立時期も不明。物語の終りが1025年のことなので、それ以降で、11世紀末までに成立したと推測される。

 紀伝体きでんたい(ある人物・国にフォーカスして書く形式)で記述された歴史物語。
 (⇔対義語は編年体へんねんたい。起こった年度順に、様々な人・国のことを書いていく形式)
 『大鏡』は藤原氏の栄華がどうやって成し遂げられたのか、にフォーカスを当てた物語である。

 雲林院の菩提講で、190歳の大宅世継おおやけのよつぎというおじいさんが、180歳の夏山繁樹なつやまのしげきというおじいさんとその妻(いずれも架空の人物)に昔のことを語るのを、作者が書き留めた、という形式になっている。
 出だしは☞ 雲林院の菩提講を参照。


ノート

さてかばかりの詩を作りたらましかば」とは何故?

現代語訳すると、「さっき詠んだ和歌と同じぐらいの漢詩を作っていれば…」ということだが、何故だろうか。

当時、漢詩は男性の教養として重視されており、和歌よりも格上だと考えられていた
『和歌と同じぐらい上手な漢詩を詠めば、そのほうがもっと評価されたんじゃないかな〜、しまったな〜』ということだ。

藤原公任は和歌でも漢詩でも行けたというわけで、それだけ多才だったのですね。

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