この姫君ののたまふこと、
「人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、誠あり、
とて、よろづの虫の、恐ろしげなるを取り集めて、
「これが、ならむさまを見む。」
とて、さまざまなる
「
とて、明け暮れは、耳挟みをして、手のうらに添へふせて、まぼりたまふ。
若き人々は、
「人はすべて、
とて、眉さらに抜きたまはず、歯黒めさらに、
「うるさし、汚し。」
とて、つけたまはず、いと白らかに笑みつつ、この虫どもを、
「けしからず、ばうぞくなり。」
とて、いと眉黒にてなむにらみたまたまけるに、いとど心地なむ惑ひける。
親たちは、
「いとあやしく、さま
と
「思し取りたることぞあらむや。あやしきことぞ。思ひて聞こゆることは、深く、さ、いらへたまへば、いとぞかしこきや。」
と、これをも、いと恥づかしと思したり。
「さはありとも、音聞きあやしや。人は、
と聞こえたまへば、
「苦しからず。よろづのことどもを尋ねて、末を見ればこそ、ことは故あれ。いと幼きことなり。烏毛虫の、蝶とはなるなり。」
そのさまのなり出づるを、取り出でて見せたまへり。
「
とのたまふに、言ひ返すべうもあらず、あさまし。さすがに、親たちにもさし向かひたまはず、
「鬼と女とは、人に見えぬぞよき。」
と案じたまへり。
蝶々をかわいがる姫君が住んでいらっしゃる(家の)隣に、按察使の大納言の娘さんが(住んでいて)、奥ゆかしくて並々ならぬ様子で、親たちがこの上なく大切にお育てなさっている。
この姫君がおっしゃることには、
「人々が、花とか蝶とか言ってかわいがるのは、浅はかで不思議なことだ。人には、誠実な心があって、物の本質を追究することこそが、心のあり方に趣があるというものだ。」
と言って、色々な虫で、恐ろしい様子のものを取っては集めて、
「この虫が、変化する様子を見よう。」
と言って、様々な虫かごにお入れになる。中でも、
「毛虫が、趣深い様子をしているのが実に心惹かれることだ。」
と言って、朝も晩も、(作法に反して、額の髪を)耳の後ろに掻きやって、(毛虫を)手のひらに這わせて、じっと見ていらっしゃる。
若い女房たちは、怖がって戸惑ったので、(姫は)男の子の召使いで、物怖じしない、身分の低い者たちを呼び寄せ、箱の虫たちを取らせて、(その虫の)名前を尋ね聞き、さらに新しく見る虫には名前をつけて、面白がっていらっしゃる。
「人間はみんな、取り繕っているところがあるのは良くない。」
と言って、(当時の女性の作法であった)眉毛を抜くこともなさらず、お歯黒などは決して、
「面倒だ、汚い。」
と言って、お付けにならず、たいそう(歯を)白く見せてお笑いになりながら、この虫たちを、朝も晩もかわいがっていらっしゃる。お仕えする人々が怖がって逃げれば、姫君の部屋の方は、たいそう異様な様子で大騒ぎになった。このように怖がる人に対して、(姫は)
「けしからんことだ、下品だ。」
と言って、たいそう黒い眉で睨みなさったので、(女房たちは)たいそう狼狽えたのだった。
親たちは、
「(娘の姫君が)たいそう風変わりで、様子が(普通の娘とは)異なっていらっしゃることだ。(困ったなあ。)」
とお思いになったが、
「(姫君は)深く考えなさっていることがあるのだろう。風変わりなことだ。(私たちが姫君のことを)思って申し上げることには、(姫君は)真剣に、その(=深く思っている)ように、お答えになるので、とても恐れ入ることだよ。」
と、この(=姫君が真剣にお答えになる)ことについても、たいそう気詰まりにお思いになっている。
「そう(=姫君が真剣にお答えになる)とはいっても、世間の評判が悪いものだよ。人は、見た目の美しい物を好むのだ。『(姫君は)気味の悪い毛虫を可愛がっているそうな。』と世の人が(噂を)聞くのもたいそうみっともない。」
と(親が姫君に)申し上げなさると、(姫君は)
「構わない。あらゆる物を追求して、結末を見るからこそ、物事は意味があるのだ。なんとも幼稚なことだ。毛虫は、蝶になるのだ。」
(と言って、毛虫が蝶に)変化するその様子を、取り出してお見せになる。
「絹だと言って、人々が着ているのも、蚕が羽を生やさないうちには(糸を)吐き出し(絹を作るが)、蝶になってしまったら、喪服のようなもので、たいそう無意味なものになってしまうではないか。」
とおっしゃるので、(親たちは)言い返しようもなく、驚き呆れている。そう言いながらも、(姫君は)親に面と向かうことはなさらず、
「鬼と女は、人に見えないのが良いのだなあ。」
と考えていらっしゃる。母屋の簾を少し巻き上げて、几帳を出して立て、このように利口ぶっておっしゃるのだった。
『
作者は不詳。平安時代後期以降の成立。
10編の短編物語と1編の断片から成り、それぞれの筆者・成立年代が異なる。
『逢坂越えぬ権中納言』のみ、成立が1055年と分かっているが、「堤中納言」なる人物は登場せず、書名の由来は不明。
「虫めづる姫君」は、当時の宮廷女性としての慣習・作法を破る言動をしている。まとめてみよう。
普通の姫君 | 虫めづる姫君 |
---|---|
花や蝶を愛でる | 虫、毛虫を愛でる |
振り分け髪、垂れ髪 | 髪を耳にかける (虫を観察するため) |
女房を使う | 身分の低い男の子を呼び寄せる (女房が虫を怖がるから +虫の名前を聞くため) |
眉毛を抜き、お歯黒をする | 黒い眉を生やし、お歯黒をしない |
また、子どもとして特異な点としては、
これに対して、両親は「もっと可愛らしく子どもらしくしてくれればいいのに、困ったなあ……」と気詰まりに思っているのですね。